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2021/08/03
8月の思い(1)▼戦前と戦後を生きて、いま戦前
<仲築閒 卓蔵>
8月という月。6日 広島、9日 長崎。新潟出身のぼくの奥さんは「次は新潟だ」というビラが降ってきたことを忘れていない。
そして15日 終戦。大分中学の2年生だったかな。大分川の川原でスコップ持って勤労奉仕をやらされていた。1学年上は学徒動員で地元の海軍工廠で旋盤工をやらされていた。
昼頃だったか、近くの農家の庭に集められた。ラジオ放送を聞かされた。天皇の声が流れた。「忍び難きを忍び・・・」という言葉はいまも耳に残っている。
ぼくは「忍び難きを忍んで、戦争をつづける」と思った、が違っていた。「日本は負けた」らしい。その後、多くの同級生は「あのとき、これで平和になったと感じた」語っていたが、ぼくはそうは思わなかった。「日本は負けない」と信じ込まされていた。軍国少年だった。空襲で逃げ惑った経験がなかったからか。
「これで平和になったと感じた」という同級生を「偉いなあ」と思ったりした、彼らは、その後どう生きてきたのだろうか。同窓会で忌憚なく「平和」を「政治」を語り合えたのはたった一人。その彼も、いまや鬼籍の人。「戦前と戦後を生きて いま戦前」という川柳をつぶやきながら、ことしも8月を迎えた。いまこそ「平和の尊さ」を語らなければならないとつくづく思っている。
その機に乗っていた一人が坂本九さんだ。1941年生まれだから存命だと79歳になる。こんな写真をひけらかすのに若干の抵抗があったが、思い切って見てもらおう。九さん全盛時代の写真だ。『九ちゃん』という番組のパーティーの一コマ。ぼく(中央)は当時広報担当だった。左が九ちゃん、右は(後に『ゲバゲバ90分』を手掛けることになる伝説のプロデューサー)井原高忠。
みんな(当然だが)若かった。二人とも、もういない。『上を向いて歩こう』は不朽の名曲になっている。あんなことこんなことがかけ巡る8月。「合掌」の月。そして、思いを新たにする月である。
2021/08/03
8月の思い(2)▼4歳の8.15
<丸山 重威>
その日、1945年8月15日。満4歳の私は、なぜか昼寝をした。目覚めて起きたのは、まだ日差しが高い時刻だったから、3時か4時かだったと思う。寝ぼけ眼で、起きていった私に母が言った。「戦争が終わったよ!」―それ以外の言葉はわからない。ただ、はっきり覚えているのは、そのとき、田舎屋の土間に差し込んで来た強い陽差しと、母がにこにこして明るかったことだ。
製紙工場に勤めていた父は、工場疎開(?)で朝鮮に行き、母と弟と私と祖母の4人は、44年12月と翌1月に起きた東南海地震と三河地震の余震、艦砲射撃と艦載機グラマンの爆音が続く浜松を去って、母の実家がある静岡県引佐郡の田舎に疎開していた。農家の離れの6畳か8畳か1部屋に、叔母たち一家もやって来て7人。気が抜けない生活だった。
防空壕とか、艦砲射撃とかいってもわからない世代が大部分になった。防空壕はいろいろあるが、私などが入ったのは、庭に掘った竪穴式住居のような穴。深さは2~3メートルくらい。隅の方に土の階段があって中に入る。下は何かむしろでも敷いてあったかどうか、穴の上はトタンなどで覆って土をかける。空襲警報が出ると、一家揃ってそこに入って息を潜めた。ズンズンズンという爆音が艦載機のグラマン。やがて、艦砲射撃と艦載機の機関銃だろう、バラバラバラッと、パチンコ玉をこぼしたような音が聞こえる…。「静かにしていなさい」と大人たちはいうが、2つ下の弟は大きな声で泣き出し、母が干し芋を加えさせてごまかした。よくわからないが、ただ怖かった。
疎開してからも子供心に怖かったのは、サイレンだった。都会のように、サイレンが鳴ると防空壕に飛び込むようなことはなかったが、田舎でもサイレンが怖かった。川の畔の竹林が風に揺られてざーっと音を立てると、いたたまれなくなった。その思いは、小学校に入ってからも続き、聴くと泣きたくなって困った。
2021/08/04
8月の思い(3)▼腹を空かせていた日々と今
<福島 清>
8月15日は晴れていた。昼頃だったか街に出ると、「戦争が終わった」という声が聞こえた。もう空襲警報のサイレンは鳴らないんだな、夜は電灯を黒い幕で覆わなくてもいいんだなと思った程度だった。
問題はその後だった。とにかく食べるものがない。父が地方公務員で、田んぼや畑があるわけではないので、自給自足もできない。母がなけなしの着物をもって塩尻の農家を訪ね、物々交換でコメを貰うのについていった時には、みじめな思いでいっぱいになった。
時は過ぎて今、目を転じると、世界では77億人のうち 9人に1人(約8億人)が栄養不足であり、日本の食料自給率は37%で先進国中最低という(農林水産省HPから)。にもかかわらず「食品ロス」はものすごい。総務省データ(2018年)によれば、食品ロスは600万㌧(事業系324万㌧、家庭系276万㌧)だという。たまに行く回転すしでは、小学生や幼稚園児が「トロ」「イクラ」なんて言って注文しては残し、食い散らかせて帰っていく風景を見る。弁当箱のフタについたコメ一粒も残さなかった身には、見るに耐えない景色だ。
コロナウイルス禍下で、最低限の食料すら確保できない学生や派遣労働者、子ども食堂が頼りの家族など「食の貧困」は、危機的だ。2009年正月の日比谷公園「年越し派遣村」に、わずかばかりのカンパをもっていったことを思い出すが、今はもっと深刻ではないか。
80歳を過ぎて食べる量も減った。育ち盛りにろくなものを食べなかったためか、旨いものを食べたいとも思わない。戦争で粗食を強いられたことが、今になって役に立っていると思っている。
2021/08/07
8月の思い(4)▼死んだ男の遺したものは
<鈴木 彰>
父が満州に連れて行かれたため、母は3人の子どもを連れて新潟北端の村上に身を寄せた。そこは医学を志した父がいったん捨てた実家だったから、母には居づらく心細い場所だったろう。ある日私が、近くの原っぱにかかっていたシバタ大サーカスのテントの間でひとり遊びをして家に帰ると、異様な空気に閉ざされていた。父の戦死を伝える便りが届いていたのだ。私が「大きくなったらアメリカをやっつけてやる」となぐさめると母は泣き崩れた。
これは、1944年8月の私の記憶。8月20日に戦病死した父は33歳だった。28歳の若さで、8歳の姉と4歳の私、生まれたばかりの弟を抱えて遺された母は、その後のある夕方、弟を背負い、姉と私の手を引いて、三面川のほとりを歩いた。「お散歩」と思ってはしゃいでいたおぼろな記憶があるが、母の深い絶望に気づくことはなかった。成人した後に姉が話してくれたのだが、母は川に死にに行ったのだ。暗い河原に長いこと立ちすくんでいた母は、「もう帰ろうよ」という幼子の声に応えて4人の命を守る決意をして帰ってきた。翌年に終戦となり、その翌年に私は小学校に入学した(私たちの年からひらがなの教科書が使われ、「新しい憲法」も生まれた)。ラバウルの戦場から生きて帰った父の弟が母と3人の子を引き取り、新潟市への転居を起点とする新しい家族の歴史を出発させてくれた。その新しい父も、そして母も、すでに彼岸に渡ったが、新潟で得た妹を含めて4人の兄弟姉妹は、貧しいけれども強い絆を持つ家庭で生き生きと育ち、元気にこの夏を迎えている。
* 写真左は1943年の筆者、軍国幼年?だった。右は戦死した父の在郷軍人手簿表紙と輸送船に乗る父。
2021/08/09
8月の思い(5)▼父の出征
<仲築閒 卓蔵>
みなさん子どもの頃の写真を紹介している。そんな時代があったのですね。
この写真はぼくが小学校に入学した頃だとおもいます。
支那事変(1937年7月7日の盧溝橋事件を発端とする日中戦争を支那事変と呼んでいました)がはじまって間もなく、父親の一回目の招集のときのものです。後列左は母の父親で坂ノ市町の町長をしていましたね。故郷は、いまでこそ大分市ですが、当時は大分県北海部郡坂ノ市町。
朝鮮出身のO君も同級生。朝鮮出身というだけでいじめにあっていましたね。見るに見かねて「やめろよ」といったら、みんなやめましたね。ぼくが腕っぷしが強かったわけではありません。「町長の孫」という立場が効いたのです。
小学校の校門を入ると左側に(天皇皇后の写真が納められた)奉安殿。登校時に頭を下げて通らないと怒られましたよ。「戦地のお父さんに申し訳ないと思はないのか!」が接頭語です。
父は無事に帰りましたが、こんどは1941年に始まったアジア太平洋戦争で二度目の招集。勤務先は長崎の五島列島。
1945年8月。幸い無事に帰ってきました。
帰る途中に被爆したばかりの長崎を通ったのです。「崩れ残った壁に、梯子と人の影が黒く映っているのを見た」そうです。そこで作業をしていたのですね。
この写真。前列右がぼく。ぼく以外はみんな鬼籍。残っている奇跡。この「奇跡」は大事です。言いたいことを言い続けましょうよ。
作家の辺見庸さんが言っていました。「言葉を奪われているのはどちらか、戦時下の記者なのか、今なのか。今、報道規制はある。それは内なる(自ら検閲する)規制だ」と。この言葉、忘れていません。
2021/08/09
8月の思い(6)▼「武運長久」と言っていた時代
<仲築閒 卓蔵>
これは父が最初の「出征」のとき、家族や親せきが寄せ書きしたものです。
当時は概ね「武運長久」だったと思います。出征した人が「いつまでも無事でいるように」という祈りの日の丸です。
「祈御奮闘」という文字もありますが、母の従弟は「御健康ヲ祈ル」と書き、母は「凱旋の日をお待ちしています」と素直に気持ちを書いています。その頃はまだ「無事で帰国を」を何の抵抗もなく言ったり書いたりしていたのですね。
それが1941年(昭和16年)にはじまったアジア太平洋戦争からガラッと変わりました。「武運長久」から「滅私奉公」です。「身を捨ててお国のために尽くす」ことが兵士の本文となったのです。
●どこかで読んだ「自由と平和のための京大有志の会」の「声明書」
戦争は、防衛を名目に始まる。
戦争は、兵器産業に富をもたらす。
戦争は、すぐに制御が効かなくなる。
戦争は、始めるよりも終える方が難しい。
戦争は、兵士だけでなく、老人や子供にも災いをもたらす。
戦争は、人々の四肢だけでなく、心の中にも深い傷を負わせる。
精神は、操作の対象物ではない。
生命は、誰かの持ち駒ではない。
海は、基地に押しつぶされてはならない。
空は、戦闘機の爆音に消されてはならない。
血を流すことを貢献と考える普通の国よりは、知を生み出すことを誇る特殊な国に生きたい。
学問は、戦争の武器ではない。
学問は、商売の道具ではない。
学問は、権力の下僕ではない。
生きる場所と考える自由を守り、創るために、私たちはまず思い上がった権力にくさびを打ち込まなくてはならない。
2021/08/09
8月の思い(7)▼戦後民主主義を生きる
▲調布平和を歌う合唱団 第2回演奏会こわしてはいけない -無言館をうたう
<石川 康子>
昭和20年小学校入学なので、いわば戦後民主主義の第一期生だ。それを目いっぱい享受して育った。とりわけ5,6年担任の先生が、若く意欲的で、毎月研究発表会、お誕生会など生徒の自主活動中心に徹し、6年になるとグループ学習と称してクラスを5〜6人のグループに分け、それぞれ1日の学習計画を立てて自主学習することもあった。
「今日は上野の科学博物館に行きます」と届けを出して、生徒たちだけで電車に乗って出かけたこともある。当時上野公園には「浮浪児」とよばれた戦災孤児たちがいて、お弁当を食べていると「ちょうだい」と手を伸ばしてくるような状況だったのだから、今の教育では考えられないことだろう。
同年齢の夫が「いつかは兵隊にとられて死ぬと思っていた」というのとは大違いで、空襲で防空壕にはいるのも一種わくわくする非日常体験だった。「あんたが笑わないのでご近所でお芋の蔓をもらって炒めて食べさせたら笑った」と母から聞いたので飢えていたのだろうが、その記憶もない。海外勤務経験のあった父は初めから「この戦争は敗ける」と公言していて、「討ちてしやまん」の学校教育を受けている姉たちに批判されていたような家庭だったから、価値観の転換などということも経験せず、のほほんと生きてきた。
だから安倍前首相が「戦後レジームの見直し」と言い出したときは自分の人生を全否定されたように感じて大いに傷つき、「安保法制違憲訴訟」が提起されたときには、個人的には戦争被害を受けていないにもかかわらず躊躇なく原告団に加わった。刻々悪化する政治情勢に合わせて残りの人生の目標を「生きている間には9条は変えさせない」と絞り込み、地域の合唱団で「こわしてはいけない、私たちの憲法!」(池辺晋一郎作曲・合唱組曲「こわしてはいけない ― 無言館を歌う」)と歌っている。