2022/09/19
元記者、石塚直人の最後のメッセージ
若者たちにメッセージを発信
<「憲法とメディア」にエッセーを連載していた、元読売新聞記者の石塚直人さんが9月17日、旅立ちました。生前に聞き取った石塚さんの、若者たちへの伝言を掲載します>
沖縄本土復帰から半世紀を経ても、構造的に欠陥がある日米地位協定の改定はなされず、沖縄の人々が苦しみ続ける。この狭い日本の領土に原子力発電所がひしめき、原発事故の当事国であるにもかかわらず原発政策を推進。海外からの難民の受け入れは極端に少なく、難民申請中の人々には過酷な仕打ち。貧困や格差が進むなかで、市民の血税が投入される安倍晋三元首相の国葬実施――。
若い人たちには、「こんな不条理なことは許してたまるか」という気持ちで、民主主義を守るために連帯してほしい。ジャーナリズムが萎縮してしまえば、そのうちに言論の監視、統制が行われ、戦時と同じ状態になってしまう。だが、どんなときでも真実を追求する可能性がなくなることはない。
私は香川県で生まれ、大阪外国語大(現大阪大外国語学部)を卒業後、1979年に読売新聞大阪本社に入社した。高知支局や大阪本社の配信部などで勤務し、2019年末の退職後は高知県香美市で暮らしている。
新聞社時代は、教育や平和、在日コリアンへの民族差別の問題など、わりと自由に取材をすることができた。思えば、入社して1年生のとき、先輩から「おまえは『最低のサツまわり』」と言われたことが、私にとって都合がよかった。
退職後は、地元の高知新聞をはじめ、紙面でいい記事に出合うと、書いた記者にメールをするなどエールを送ってきた。たとえば、ある全国紙の支局の記者は、高知県内初の公立夜間中学が設立されるとき、3回の連載で開校までの道のりを執筆。入学希望者に、思いを語らせたところに感心し、そのようなことをメールで伝えた。
大阪には、反権力、反資本を掲げる「人民新聞」があり、記事を書いているのは、それまで何らかの活動をしてきた人たち。私も、この「大衆政治新聞」に寄稿し、経済的に大変な時代に発行し続けている彼らを応援した。
私は、自分のことを「ジャーナリスト」とは思ってはいない。けれども、子どものころから、頭に描いてきた新聞記者像には死に物狂いでしがみついてきた。おそらく同じ世代の記者の2倍は働いた。
事実として「こうであった」ということをしっかりと出していく。それが記者の仕事だと思っている。
2022年9月9日 石塚直人 (まとめ・明珍美紀)
●「憲法とメディア」での石塚直人さんのエッセーは、20年8月から始まりました。大腸がんが判明して今年1月に手術を受けましたが、闘病中も執筆活動を継続。最新の16回目のエッセーは、記事掲載制作担当の滝澤政彦さんによる聞き書きです。