2021/01/17
できることなら あの日に戻りたい
仲築間卓蔵
仲築間卓蔵
 新年早々、元NHKディレクター・戸崎賢二さんの訃報で驚いたばかりでしたが、またもや「ええッ」です。旧知のシンガーソングライター・横井久美子さんが亡くなったというのを今日の新聞の訃報欄で知りました。
 しばらく音沙汰がなかったのでネパールの子どもたち(彼女は自費でネパールの子どもたちに学校を造ったのです。ギターを教え、歌を教えてもいました)に会いに行っているか、彼女が愛しているアイルランドにでも行っているのかと思っていたのですよ。
 彼女との付き合いは古い。出会ったのは「薬害スモン」の戦いの場です。1970年代。厚生省前の集会には必ず参加してくれて歌ってくれましたねえ。その時つくられたのが『ノーモア・スモンの歌』です。ぼくの旧著『いまなぜ メディアを読み解く目』に、当時盛り上がっていた「千代田総行動」のたたかいに触れながら紹介しています。
 ♪ 道端の小さな花でも 生きている
   土に住む小さな虫でも 生きている
   そんな姿に 生きる力をとり戻したけれど
   こんな苦しみは二度と この世に起こしてはならない
   こんな苦しみはもう
   私たちだけでいい
 千代田総行動の大デモの先頭にスモンの患者さんたちが車椅子を押されながら参加してくれました。千代田区労協の猛者連も、そんな姿に泣きましたねえ。
 スモン闘争は解決しました。当時の厚生大臣は橋本龍太郎さんでしたね。
 横井久美子さんの歌は幅広かった。アメリカ軍の戦車を止める運動の中で『戦車は動かない』が生まれました。『自転車に乗って』は軽やかな歌です。
 ぼくが好きな歌は『私に人生といえるものがあるなら』です。リクエストして必ず歌ってもらっていましたよ。とりわけ最後の歌詞がいいのです。
「♪ ・・・できることなら あの日に戻りたい」です。
いまもそんな思いでいます・・・・合掌。

Kumiko Yokoi HomePage (横井久美子 ホームページ)
2020/12/16
県立夜間中学、来春開校へ(上)   ―高知から(4)―
<この記事は2部に渡っています。読みやすいように掲載時系列ではなく、上から(上・下)と並んでいます>

石塚直人(元読売新聞記者)

 秋も深まった11月21日、高知市で来春開校する県立高知国際中学校夜間学級(夜間中学)についての学習会(高知県に「夜間中学」をつくる会=以下「つくる会」=主催)が市内で開かれ、約50人が参加した。同市には市民有志が運営する朝倉夜間中学校もあり、新年度から2つの夜間中学が並立する。四国にはこれまで「朝倉」以外に夜間中学がなく、関係者は設置運動の広がりに期待している。

県立高知国際夜間中学校の予定地(現:高知江の口特別支援学校)
 夜間中学は、貧困や病気などにより学校に行けなかった人のため、戦後に大都市圏で相次ぎ開校した。ピークの1955年には全国で89校、約5200人が通っていたという。しかし、文部省は「学校教育法に規定がない」と支援を拒み、その後は廃止が相次ぐ。行政管理庁(現・総務省行政管理局)が早期廃止勧告を出した66年には27校、約470人まで減っていた。
 再生の立役者となったのが、東京・荒川九中夜間中学の卒業生、髙野雅夫さん(80)だ。旧満州から博多に引き揚げた戦争孤児で「野良犬のように生きるだけ」の少年期を経て東京へ。山谷で出会った廃品回収のおじいさんに自分の名前の書き方を教わり、21歳で入学した。
 17人の同級生の大半は、昼間工場などで働く13~15歳。彼らとともにがむしゃらに学ぶことで「人間としての誇りと権利」を取り戻していったという。卒業の翌年、早期廃止勧告が出されると、自分の親への死刑宣告と受け止めた。テレビ局から資材を借りて学校の記録映画を作り、これを手に67年秋から勧告反対の全国行脚を始めた。
 68年10月には、夜間中学のなかった大阪市での設置を目指して釜ヶ崎に定住、街頭でビラをまきながら市教委や教員組合と交渉した。最初「うちには義務教育の未修了者はいない」としていた教委も、髙野さんが出演したテレビ番組の視聴者から入学希望が相次いだことなどで方針を改め、翌年6月に市立天王寺夜間中学が開校した。
 髙野さんは東京に戻るが、これ以来夜間中学は盛り返し、76年には全国で30校、約2500人となる。学習者本位の心温まる授業風景は、山田洋次監督の映画「学校」(93年)などで広く紹介された。
とくに大阪府(大阪市を含む)で76年秋までに7校が開校したのは、天王寺夜間中学などの卒業生・在学生と支援団体が粘り強く取り組んだ成果だ。正規の教員が教える公立夜間中学のほか、ボランティアが運営する自主夜間中学も各地に生まれた。国内最大の在日コリアン集住地・大阪市生野区では、自主夜間中学が97年、市立東生野夜間中学に結びついた。

 長い間、夜間中学を認めてこなかった文部科学省が「各都道府県に最低1校を」と態度を逆転させたのは2014年夏。翌年には、ほとんど登校せずに卒業させられた「形式中学卒業者」の入学を解禁、16年には教育機会確保法が公布された。急増する外国人労働者と不登校への対応が必要となったからだ。
 現在、全国の公立夜間中学は10都府県に34校。校数は94年と同じでも、生徒の内訳は大きく変わった。94年には在日コリアンが44%、中国などからの引揚者が19%で、日本人25%の大半は成人。外国人は難民を含めても12%しかいなかった。
 それが17年には、東南アジアや南米などからの外国人が69%、日本人は17%。学齢期に不登校だった生徒が、年を経て学習の場を望む例も増えている。

大阪の夜間中学生らを招いて開かれた学習会(2020年11月)
 高知県教委は17年秋、公立夜間中学の設置検討委員会を設け、翌年春に「早ければ19年度中にも」開校するよう報告を受けた。これまでの夜間中学はいずれも市区立だが、市町村教委のすべてが消極的だったことから県立とした。
 無差別の県民向けアンケートでは344人が「あれば行ってみたい」、他の県政課題も含む県民世論調査(3000人対象)では42人が「(自身や知人が)興味がある・通いたい」と回答。このうち不登校や家庭の事情で小中学校に行けなかった人は27人いた。
 県教委は18年秋から県内20か所で指導主事らによる体験学校を開き、263人が参加した。今年2月には「来年4月に移転する特別支援学校(高知市新本町)の校舎を使って開校する」と表明、10月から生徒の募集(12月3日まで)を始めた。

 「つくる会」を立ち上げた細川英輔さん(62)は、日教組高知の委員長も務めた元中学校教諭。1993年に大阪市で開かれた全国同和教育研究大会で、髙野さんと出会った。
大会を主催した全国同和教育研究協議会(全同教、現・全国人権教育研究協議会)は部落差別の克服を目標とし、高知県同教は53年の全同教発足以来の構成団体(近畿・中四国11府県市)の1つ。県内の同和地区では、差別のため学校に行けなかった高齢者らの識字学級が続いていた。
 受講生の北代色さんが文字を覚えた喜びをつづった手紙「夕やけがうつくしい」(73年)は、全国で教材として使われた。髙野さんの実践はこれらと深く重なり合う。二人は交流を重ね、17年夏には髙野さんと大阪府内の夜間中学卒業生、教員ら9人が高知市内での研究集会に参加した。
 卒業生は「文字とともに朝鮮の文化や歴史も学び、胸を張って生きられるようになった」などと思いを語った。髙野さんは、国の方針転換を一定評価しつつも「夜間中学はあくまで学習者が主体。上の指示通りに教える学校なら意味はない」とクギを刺した。かつての全国行脚から、50年が過ぎていた。

 18年末に発足した「つくる会」には、県人権教育研究協議会のメンバーが多く参加している。19年春から4回、大阪から複数のゲストを招いて学習会を開き、今年6月には県議会、高知市議会に積極的な取り組みを求める請願を提出した。
 11月の学習会では、大阪の夜間中学生2人が体験を発表した後、元夜間中学教員で資料情報室を運営する白井善吾さん(74)が大阪の夜間中学の歴史を紹介。橋下徹知事が牛乳とパンの補食補助廃止を打ち出した08年以降、近畿夜間中学生徒会連合会が多彩な抗議運動をして譲歩させるなど、「自らの力で権利を守ってきた」ことを強調した。
 続いて高知国際夜間中学への入学を希望する女性(47)が、県教委に宛てた手紙を読み上げた。高卒認定試験を目指したいと述べた後、県教委が実施した体験授業が上滑りの内容だったとして「生徒の不安に寄り添う」学校づくりを求めた。さらに「孤独と貧しさから非行に走った私を受け止めてくれた」中学時代の恩師に感謝の言葉を述べた。
 徳島市で来春開校する「県立しらさぎ夜間中学」の教頭に就任予定の男性も「同じ四国の仲間として連携・成長していきたい」とエールを送った。
参加者全員による意見発表では「教員は生徒を自分の掌の上に乗せたがるが、生徒に学ぶ姿勢が必要」「外国人のため市民ボランティアの組織化を」「手紙を読んだ女性の覚悟に心を打たれた。彼女のような生徒を外から支えたい」などが出た。
                                    (続く)
2020/12/16
県立夜間中学、来春開校へ(下)   ―高知から(4)―
石塚直人(元読売新聞記者)

 朝倉夜間中学は1998年4月、市立朝倉第二小学校(同市若草南町)の校務員棟を借りて開校した。脳性まひで就学免除とされた地元の女性が結婚して母となり、「子どもの宿題を見てやりたいので、自分も学校で勉強したい」と訴えたのがきっかけだ。
 女性は形式中卒者のため中学校に入学できず、同小PTAの「人権問題学習会」メンバーらが96年5月、近くの市民会館で女性向けの夜間教室を開いた。さらに「朝倉夜間中学校を設立し、公立民営化を実現する会」を作って市教委と交渉、空いていた校務員棟の使用許可を取りつけた。2002年には、同じ敷地内に新しい校舎が完成した。
 最初から学校創設にかかわり、今は代表を務める山下實さん(66)は、自身も小学校時代にいじめで不登校になった体験を持つ。障害を持つ長女を「安心して学べる小学校に通わせたい」と同和教育の進んだ同校を選び、人権問題学習会も組織した。
朝倉夜間中学校の校舎。運動場を挟んで朝倉第二小学校と向かい合う
 朝倉夜間中学は、土地と建物、光熱費と消耗品費、スタッフ2人の給与などを市教委が提供し、運営は山下さんら地元住民が責任を持つ「公設民営」方式だ。多くの自主夜間中学が運営費やスタッフをボランティアに頼り、週1、2回しか開講できずにいるのと比べ、週5日の授業は特筆される。
当初、市教委は「夜間中学に公金を出すのは難しい」として、生涯教育枠での予算化を打診したが、山下さんらは学校教育枠にこだわった。このため同校は、市教委が不登校の子どものために設けた「教育研究所・朝倉教室」を兼ねることで落ち着いた。
 開校以来22年、学ぶ意欲のある人は「いつでも誰でも」受け入れ、約300人が学んだ。中学生から高齢者までのほか、小学生も保護者に付き添われて通ってくる。ルールは「勉強している人の邪魔をしない」ことだけ。
 とくに不登校の子どもの進路保障に力を入れ、在籍する昼間の学校と連絡を取りながら可能な限り母校に戻す。生徒の志望校に出向いて校長に様子を説明する。地道な努力が実り、希望者のほとんどが公立高校に合格してきた。

 初めて朝倉夜間中学を訪ねたのは、定年過ぎの嘱託記者として高知に戻って間もない16年5月だった。ユニークな夜間中学があるとの情報にすぐ反応したのは、かつて大阪市生野区の識字教室「生野オモニハッキョ」(オモニは朝鮮語で母、ハッキョは学校)で長く教えた思い出があったからだ。
 ハッキョの誕生は1977年にさかのぼる。私がかかわったのは大阪外大(現・大阪大外国語学部)朝鮮語学科4年生だった78年春から1年、そして大阪本社にいた2000年春から16年。毎週月・木曜夜、10人余のスタッフが中高年のオモニ(親しみを込めてこう呼ぶ)30~40人を教えていた。
 最初の半年が過ぎた頃、担当のオモニが私に会うなり「せんせ、きのう初めて一人で電車に乗った!」と満面の笑顔を見せたのは忘れられない。授業のおかげで駅名のひらがな表示が読めるようになり、自分で切符を買って隣駅まで往復してきたという。
 オモニの大半は、日本の植民地支配時代に大阪とフェリーで直結していた韓国・済州島出身者とその娘たち。実家は貧しく、手伝いや日本人児童のいじめなどでろくに学校に行けなかった。その彼女らが高齢になって文字を覚えることがどれほど大変かは、授業をしてみればすぐわかる。
 手放しの感謝がうれしく、就職後も何かにつけて思い出した。復帰してからもオモニから多くのことを学んだ。とくに01年には、北九州市の自主夜間中学「青春学校」のリーダー稲月正さんが半年間、授業をし、受講生やスタッフが互いに訪問し合った。皆が徒歩や自転車で通うハッキョと違い、青春学校では遠隔地の受講生をスタッフが車で送迎していると聞いた時は、改めて粛然とさせられた。
 同じ頃、大阪では夜間中学や識字学級のほか、外国人を対象とする「日本語教室」が急速に広がり、合わせて約200か所にも達していた。同じ区にある東生野夜間中学とは定期的に交流し、同校に在籍年限(9年)が導入された年には、同校卒業生だけのクラスを受け持った。わずか1年足らずながら、知人に頼まれてフィリピン人女性数人に日本語を教えたこともある。

 勢い込んで出向いた朝倉夜間中学だったが、記事は未完に終わった。公設民営方式を巡る折衝、複雑な生い立ちや学習歴を持つ生徒、映画「学校」のモデルとされた東京の元夜間中学教員・松崎運之助さんの助力など、複雑過ぎて100行くらいではとても書き切れない。半月後にも再訪、あれこれ悩むうち季節が変わり、薄着の写真が使えなくなって断念した。
 翌17年に県教委による検討作業が始まると、教育担当の同僚に頼み、取材させてもらうことにした。潜在的な入学希望者は多いはずだが、毎晩の通学は大変で、実際の入学者数は見通せない。場合によっては廃校にもなりかねず、紙面を通して世論を盛り上げたいと考えた。昨年末に退職した後も、つくる会の活動には参加してきた。

不登校の少女(後ろ向き)を囲んで一緒に学ぶ
(正面が山下さん、右上は保護者)(2020年12月)
 12月7日、久しぶりに訪れた朝倉夜間中学の雰囲気は以前と同じだった。午後4時を過ぎる頃から生徒たちが姿を見せ、思い思いに机に向かったり寝転んだり。
 山下さんによると、今通ってきているのは小中学生が約10人、高校生が4人、専門学校生や社会人が約10人。小中学生は昼間の通学生と不登校生が混在し、中高年ではたまに来るだけの人もいる。後輩を励ましに訪れるOB・OGも少なくない。
 県立夜間中学については「学ぶ場所は多い方がいいし、別に反対するつもりはない」。ただ、今の日本の権威主義的で画一的な教育には、強い拒否感があるという。「小学校の内容がわからない生徒に中学校の教科書を押し付けてどうするのか。学校から弾き出され、それでも学びたい人を支えるのが僕らの仕事」と熱っぽく語る。
 今年4月に採用された高知大大学院(教育学専攻)1年の畠中俊暉さん(22)は「ここの子どもたちは、昔の自分より優れている気がします」と打ち明ける。好きなことをする時の集中力だ。ただ、それは昼間の学校の勉強とは違う。「遊びたい盛りの小学生にどうやって教えるか、いつも試行錯誤ですね」。

 県教委は12月14日の臨時教育委員会で、高知国際夜間中学の入学希望者が12人だったと報告した。高知市と周辺3市に住む20~60代の男性4人、女性8人で、2人は外国籍。近く面接をして入学者を決めるが、「今後も希望があれば相談に応じる」としており、教員の配置人数などを詰めるのもこれからだ。
「つくる会」は希望者の掘り起こしを目指し、来年1月4日から高知市役所でパネル展「夜間中学はいま」を行うほか、2月13日には髙野さんを招いて学習会を開く。

 夜間中学は「教育の原点」だとよく言われる。多くの小中学校で成績による個人の序列化が進み、いじめや不登校が後を絶たないのに比べ、ここでは伝統的に学習者の「学ぶ喜び・学ぶ権利」が大切にされてきたからだ。
 多くの夜間中学が昼間の中学生と交流し、高齢の夜間中学生に接した若者が対話を通じて自分を取り戻す事例も無数に報告されている。朝倉夜間中学の山下さんは「うちに<暗い子>はいない」と断言した。昔のオモニたちも記憶力の衰えを嘆きこそすれ、その表情は明るかった。
 当事者と支援者が「下から」作り上げてきた夜間中学が突然「上から」のそれに変わったことで、「管理主義が進み本来の長所が失われるのでは」と懸念する声は少なくない。新たな夜間中学を「生徒が辞めていく学校」にしないために、県教委と「つくる会」など県民の力量が問われている。

 夜間中学の歴史については、髙野さんや元夜間中学教員がまとめた「生きる 闘う 学ぶ―関西夜間中学運動50年」(19年・解放出版社、3000円プラス税)が詳しい。夜間中学生と卒業生19人、教員・元教員30人、ジャーナリスト5人の原稿のほか、座談会やインタビューでごく最近までの歩みを概観。巻末の資料や年表も充実している。
2020/11/05
自由は土佐の山間から(上)     ―高知から(3)―
<この記事は3部に渡っています。読みやすいように掲載時系列ではなく、上から(上・中・下)と並んでいます>

石塚直人(元読売新聞記者)

 高知市立自由民権記念館(同市桟橋通4)が今年、開館30周年を迎え、10月10日に館内で記念式典が開かれた。この日は、日本で初めて女性参政権を要求した楠瀬喜多(1836~1920)の没後100年にちなむ企画展「民権ばあさんと女性参政権」の初日でもあり、さらに館建設の原動力となった市民団体による記念講演会も行われた。
高知市立自由民権記念館(全景)
 記念館は、高知市制百周年(1989年)の記念事業として翌90年4月にオープンした。背景には、自由民権運動の出発点となった1874(明治7)年の民選議院設立建白書に署名した8人のうち4人が土佐の出身で、この年誕生した「立志社」が全国の運動をリードしたこと、著名な民権政治家や思想家を輩出したことへの強い自負がある。
 高知城のお堀を挟んで建つ県庁と高知市役所から3~4キロ内で、民権関係の史跡が数十に上るのは、まさに壮観と言える。生誕地碑だけでも板垣退助、後藤象二郎、片岡健吉、馬場辰猪、中江兆民、植木枝盛。政談演説会や学習会、出版活動などで運動を支えた民権結社の跡も、立志社を含め数多い。
市制施行時、高知市は初代・一圓正興市長ら三役、30人の議員のすべてを民権派が占めたという。戦後も1951年から94年まで、県都としては全国最長の革新市政(社会党、共産党)が続いていた。

 民権の歴史への誇りは、保守層にも共通する。全国各地で「自由民権百年」の記念事業が相次いだ81年、高知県は自民党知事の下で実行委を設立、県市の予算で企画展や講演会を催した。行事の大半が民間研究団体主催だった他の都道府県とは対照的だ。
 翌82年には、高知市の文化行政研究委員会が、自由民権記念館の建設を含む答申をまとめた。83年2月には、歴史研究者らによる記念館建設期成会が発足した。
 期成会は「民権運動の業績を受け継ぎ現代に生かすことは県民の義務」などとする趣意書を発表。記念館の具体的な構想を市に提案する一方、民権ゆかりの史跡めぐり、枝盛の命日にちなむ「無天忌」の開催などを手がけた。高知市の諮問機関が「自由民権・坂本龍馬記念館」の建設を提言すると、明治専制政府の打倒を目指した民権運動と龍馬は別だとして、反対の論陣を張った(91年に同市桂浜で県立坂本龍馬記念館が開館)。
 これらを受け、高知市も市制百周年記念事業の検討委員会を設けて記念館の建設準備に着手。87年11月には自由民権百年の第3回全国集会が同市で開かれ、機運を盛り上げた。初代館長には、期成会の副会長だった関田英里・前高知大学長が就任した。

 電車通りに面した2階建ての記念館は、屋根の上にかがり火を模した4つの尖塔がそびえる。自由民権運動がここから全国に広がったことを暗喩し、スタッフは「自由のともしび」と呼びならわす。
中央部は奥まで見通せるガラス屋根のアトリウム。左右の1階は市民向けの企画展示室や視聴覚ホール、郷土情報室など、2階は常設展示室や収蔵庫となっている。
 常設展示室では、民選議院設立の建言から立志社の設立、日本初の政党「自由党」の結成・解党、租税軽減などを求めた87年の「三大事件建白運動」を経て、明治憲法の施行や92年の選挙大干渉への抵抗に至る民権運動の流れを紹介する。枝盛が81年に起草した「東洋大日本国々憲案」などが現憲法に生かされたことにも触れている。
 展示物は、民権派の手になる請願書や新聞、退助を襲った刺客が使った短刀など。三大事件建白書に記された「生きて奴隷の民たらんよりは死して自由の鬼たらん」などの叫びが、当時の熱気を伝える。2011年には、枝盛の旧宅から書斎が移設された。

館の入口にある「自由は土佐の山間より」の石板
 建物の正面左には「自由は土佐の山間より」と刻んだ石板がある。原文はこの後「発したり」と続き、枝盛が1877(明治10)年に「海南新誌」創刊号に書いたとされる。以来、土佐の自由民権運動の合言葉となってきた。
 「~山間より」は2000年、開館後に期成会を改組した「高知市立自由民権記念館友の会」を軸とする県民の請願により「県詞」となった。都道府県のシンボルとして花や鳥は多いが、言葉は全国で初めて。友の会は以来、県議会で請願が採択された10月13日前後の土曜日に毎年「県詞の日」記念講演会を開いている。今年は10日、「五日市憲法」の発見で知られる新井勝紘・元専修大教授を招いた。
(続く)
2020/11/05
自由は土佐の山間より(中)     ―高知から(3)―
石塚直人(元読売新聞記者)

 高知市立自由民権記念館で開催中の企画展「民権ばあさんと女性参政権」(11月29日まで)は、明治期に区会議員選挙の投票を拒否され、県庁に抗議文を出した楠瀬喜多と、彼女に続く女性たちの歩みがテーマだ。
学芸員の案内で展示に見入る人たち(10月10日)
 喜多は現在の高知市唐人町に生まれ、土佐藩士に嫁いだが、夫が病没して38歳で戸主となった。以来4年間税金を払ったのに区会議員選挙で投票できず、抗議のため滞納。何度も督促され、1878(明治11)9月「議員を選ぶ権利がないのに納税の義務は納得できない。男女同権なら納めるので、同権かどうか回答を」との文書を県庁に送った。
 県は「権利の大小に関係なく納税は義務」と回答したが、翌年1月に「大坂日報」が経過を報じ、「東京日日新聞」などが転載したことで、その名前は全国に知られた。
 喜多の男女同権思想は、立志社の演説会に「寒暑風雨をも厭わず」参加したことで培われたという。立志社の演説会には当初から「女席」が用意され、77年10月には拡張の要望が出ていた。熱心な女性はかなりいたらしい。
 彼女は全国から集まる民権活動家に自宅を宿として開放し、多くの若者に慕われた。福島県出身で後に衆院議長となる河野広中、孫文を支援したアジア主義の大立者・頭山満らが代表格で、彼女の甥は広中の長女と結婚している。晩年は視覚・聴覚障害児学校のための募金活動に奔走、87歳まで生きた。

 喜多の闘いは2年後に結実する。土佐郡上街町会(現高知市上町)が80年6月、女性の参政権を認める規則を作った。県令(知事)は元に戻すよう指示したが、町会は坂本龍馬の甥の民権家・坂本南海男(後の直寛)らの助力で3度にわたりその理由を示すよう訴え、9月に県令が方針を撤回した。
 この快挙は隣の小高坂村会にも波及し、両町村では84年の「区町村会法」改正で区町村の規則制定権が奪われるまで、女性も投票ができた。「男子にして婦女に投票し婦女もまた男子に投票したるもの少なからず」との新聞記事が残っている。

 枝盛は81年、高知新聞に「男女同権は海南の某一隅より始まる」を書いて両町村を絶賛した。85年から87年にかけ、立志社の機関紙・土陽新聞に女性解放や戸主制度の廃止を訴える論説を次々と発表、女性たちの権利意識を目覚めさせた。
 全国の民権結社には多くの女性が加わった。男性に交じり各地で演壇に立った岸田俊子(神奈川県)、岡山県出身で90年から「女学雑誌」記者や主筆を務めた清水豊子。高知では、82年に高知女子師範学校を首席で卒業し運動に加わった山崎竹、助産婦として自立しながら演説や投稿をこなした富永らく、らがいる。女性による結社の発足も相次いだ。
高知市立第四小学校の正門わきにある「婦人参政権誕祥之地」の碑
 しかし、明治憲法の発布(89年)前から女性は法的に無能力者とされ、投票はもちろん、演説会や国会の傍聴さえ禁止された。豊子は「われら二千万の女子は皆ことごとく廃人となれり」と憤激した。
以来、女性の権利は冬の時代に入る。平塚らいてうらが女性解放を訴え「新婦人協会」を結成して政治集会への参加権を回復したこと、日本基督教婦人矯風会などが参政権獲得を掲げて奮闘したことなどは評価されるものの、男性と同じ権利が認められるには、1945(昭和20)年の敗戦を待たねばならなかった。46年4月の総選挙で初めて女性代議士(39人)が誕生した。同年11月に日本国憲法が公布され、47年4月の統一地方選では女性の町村長5人、都道府県議23人、市区町村議7711人が生まれた。

 展示はここで終わっている。今を考えるには、世界経済フォーラム(WEF)が昨年12月に発表した各国の「ジェンダー・ギャップ指数」(男女の格差を経済、政治、教育、健康の4分野で示したもの)がわかりやすい。
日本の総合スコアは153か国中、121位(前年は110位)。とくに政治は、女性の国会議員や閣僚が極めて少ないことから、144位(前年125位)と最下位レベルだ。
 46年総選挙で8・4%だった女性代議士の割合は、翌年から1993年まで3%未満を低迷した。その後上向いたものの、2009年の11・3%をピークに10%前後が続く。列国議会同盟による国際比較(昨年3月)では、10・2%(衆院)で193か国中165位。英仏独の30%台はおろか、世界平均の24・3%にも離され、25年前のそれ(11・3%)にも及ばない。

 国会議員の大半が男性、しかも多くが世襲で、彼らの中から首相や閣僚の大半が選ばれる現状が、日本の政治をゆがめている。主に財界や特権層の意向で税金が使われ、利権から遠い教育や福祉は後回しにされてきた。
女性議員を増やすには、出産や子育てをしながら活動できる制度が必要だ。3年前、乳児の長男を抱いて議場入りした熊本市の女性市議(当時42)が退席を命じられた。彼女は翌年も、風邪でのど飴を口に入れて質問したことが問題視され、審議が空転した。欧米のメディアはあきれ顔で論評した。
 同じ頃、ニュージーランドの女性首相(同40)が国連総会に生後3か月の長女と出席し、パートナーの男性がおむつを替えている部屋に入ってきたのが日本の代表団。男性は「彼らのびっくりした顔を写真に撮ればよかった」と皮肉たっぷりに話した。
 全国各地で、女性の地位向上に取り組んできた団体の奮起もカギを握る。高知では1999年に開館した「こうち男女共同参画センター・ソーレ」の設立に動いた女性たちが2006年、男性を含めた「こうち男女共同参画ポレール」を設立した。
 以来、県などと連携しながら学習・啓発活動を進め、最近は「女性議員の拡大」に絞って各党の取り組みの調査や現職議員らによるシンポジウムを手がけた。シンポでは候補者の一定数を女性とするクオータ制の導入、当選させたい人の子育てや介護を支援する態勢づくりなど、熱のこもった議論が繰り広げられた。
(続く)

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