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2021/10/14
今こそ政権交代を(上)       ―高知から(9)―
<この記事は3部に渡っています。読みやすいように掲載時系列ではなく、上から(上・中・下)と並んでいます>

<石塚直人(元読売新聞記者)>
 10月31日投開票の第49回衆議院選挙まで、あと半月と迫った。高知では自民党総裁選さなかの9月20日、市民団体と護憲派野党4党が「合意確認書」に調印し、小選挙区は立憲民主党が擁立する2人の前職国会議員を野党統一候補として戦う。分厚い保守の地盤ながら、やはり野党共闘で臨んだ前回は高知2区(県西部)で自民前職を破っており、陣営の意気は高い。

野党共闘で合意した広田氏(左から4人目)武内氏(同5人目)ら
(9月20日、高知市で)
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 高知での調印式は、同月8日に東京で行われた全国レベルのそれからわずか12日後。東京での野党共闘をリードした「安保法制の廃止と立憲主義の回復を求める市民連合」(略称・市民連合)に該当するのは、市民連合より半年早い2015年5月に安保法制反対などを掲げて発足した「戦争させない!戦争に行かない!高知憲法アクション」(憲法アクション)だ。
 この年夏、安倍政権が成立を目指した安保関連法案に対し「平和憲法を蹂躙する暴挙」だとする抗議行動が全国で広がり、国会前には最多で約10万人が集まった。しかし安倍政権は9月19日、数の力で法案を強行採決。一方、歯止めとなるべき野党間の選挙協力協議は足踏みしていた。
 市民連合は「立憲デモクラシーの会」など各団体の代表らが、市民の力で野党共闘を後押ししようと同年12月に結成。翌16年7月の参院選では、32の1人区すべてで野党統一候補を擁立する原動力となり、11議席を得た(比例代表では4野党で44議席)。以来、国政選挙の度に立憲野党と政策で合意、応援してきた。

 「憲法アクション」の歩みは、市民連合とほぼ重なり合う。特定秘密保護法案が強行採決された13年に大学教員や弁護士ら7人が結成した「国民主権を守り、憲法を暮らしに活かす懇談会」(憲法懇談会)を母体に、宗教者や農業者、企業経営者、市民運動家を含む約60人が呼びかけ人となって護憲平和や脱原発の集会をいくつも開催。今も安保関連法成立日の毎月19日、高知市内で抗議行動を続けている。
 国政選挙を巡っては、15年11月に県内野党に向けて「戦争法廃止、安倍政権の退陣を求める野党共闘」の実現を求めるアピールを発表して以来、節目ごとに候補者の一本化を申し入れ、関係各党と共闘してきた。
 翌16年7月の参院選は、1人区が初めて徳島・高知両県の「合区」となり、徳島の弁護士(民主党)を同県の市民団体とともに両県の野党統一候補としたが、徳島の自民候補に6万2907票差で敗れた。それでも高知市内に設けた共同選挙事務所には、政治に縁遠かった女性や学生らも訪れ、県内に限れば7031票まで差を縮めた。高知市では逆に4144票上回った。
 翌17年10月の衆院選・小選挙区では、高知1区(県東部)と2区で民進、共産両党が早々と公認候補を擁立したのに対し、4月に「統一候補に求める政策」23項目を発表して一本化を申し入れた。この23項目自体、参院選で初めて選挙運動に取り組んだ女性有志や学生を交えて4回の議論を重ねた成果だ。
調印式であいさつする広田氏(右は武内氏)
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 7月に立候補予定者を招いて「市民と野党の討論会」を開き、9月にも両党をプッシュ。最終的には民進の分裂に伴い、1区は自民の中谷元氏(元防衛相、公明推薦)、希望の新人候補と共産新人・松本顕治氏(社民・新社会支持)の三つ巴、2区は民進・共産・社民・新社会推薦の無所属広田一氏(元防衛政務官)と自民の山本有二氏(前農水相、公明推薦)の一騎打ちとなった。
 1区は中谷氏が8万1675票で圧勝したものの、2区は広田氏が9万2179票と山本氏に2万1170票差をつけ、17年続いた県内小選挙区の自民独占に終止符を打った。比例四国ブロック(定数6)では、結党直後の立民から立った武内則男氏(元参院議員)が5位当選、小選挙区で敗れた山本氏も6位で復活当選した。
 広田氏は自民党県連会長も務めた父を継いで95年に同党の県議となり、04年に無所属で参院議員に当選、09年に民主党入りした。保守層にも人気があり、希望と立民の要請を断って比例復活のない無所属で立候補した潔さも評価された。
 19年7月の参院選徳島・高知選挙区は4人が立候補したが、事実上は自民・高野光二郎氏(農水政務官、公明推薦)と野党統一候補・松本氏(立民・共産・国民・社民・新社会推薦)の対決。松本氏は20万1820票を得、敗れたものの5万2063票差まで肉薄した。両氏はともに高知が地盤で、高知県内の得票差は2万票足らずだった。
 比例代表を含めて各候補と各党の県内得票を見ると、高野氏の13万7473票は自民と公明の合計13万7262票にほぼ等しい。一方、松本氏の11万8188票は共産の4万854票はもちろん、立民・国民・社民を加えた9万6378票より約23%多く、共闘による効果を示した。

 高知の野党統一は同年11月の知事選でも実現した。3期12年を務めた尾崎正直知事が国政に転身するとして県出身の元大阪府副知事・浜田省司氏を後継指名し、自民・公明が推薦したのに対し、「憲法アクション」の仲立ちで立民・国民・共産・社民・新社会が松本氏を推薦して対抗、11万1397票を集めたものの6万2361票差で敗れた。
 県出身のエリート財務官僚として自民、民主、公明、社民に推され、2・3期目は無投票当選の尾崎氏が支援する浜田氏と、まだ30代で行政経験のない松本氏。勝敗は最初から明らかだったが、選挙戦では50人を超える国会議員が応援に訪れ、志位和夫(共産)枝野幸男(立民)両党首も並んで演説した。松本氏が参院選とほぼ同数の票を得たことは、「市民と野党の共闘」が着実に進化したことを裏付けた。
 これに先立つ同年4月の県議選では、「憲法アクション」が立民・共産・無所属の16人を推薦候補とし、立民・共産の新人を含む10人を当選させている。
2021/10/14
今こそ政権交代を(中)       ―高知から(9)―
<石塚直人(元読売新聞記者)>
 憲法アクションの呼びかけ人でもある岡田健一郎・高知大准教授(憲法学)は、こうした進化の背景を「1989年の総評分裂後も、高知では労働運動や平和運動の中で一定の人間関係が残り、これに脱原発などの課題に取り組む市民が参加して政党・労組と市民の関係が深まっていった」とする。
思い思いのプラカードを手に、必勝を誓い合った参加者
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 最初のきっかけは、2010年に結成された「郷土の軍事化に反対する高知県連絡会」。陸上自衛隊普通科連隊の県内移駐を機に、民主・社民(旧社会)党系の県平和運動センターと共産党系の県平和委員会が協力、恒常的な交流を目指した。
 さらに福島原発事故の翌12年に生まれた「原発をなくし、自然エネルギーを推進する県民連絡会」は、連載6で触れた「グリーン市民ネットワーク高知」など複数の市民団体が両団体とともに加わった。これまで政治活動に無縁だった市民と政党・労組が「脱原発」でともに活動した体験は、両者間の垣根を下げ、さらに市民参加を広げた。それが憲法アクションにつながった。

 緩やかな個人の集まりで共同代表制を取る憲法アクションは、今も両平和団体が連絡先として名を連ねる。最初は呼びかけ人会議だけで運営していたが、人数が多すぎるので5人前後の事務局会議を設け、呼びかけ人会議で大きな方針を決めた後はこちらで細部を詰めるスタイルが定着した。
 事務局会議は民主・共産両党の主要支援団体幹部で構成、事務局長は置かず対等の関係を重視している。声明文をまとめるなど事実上、対外的な窓口役を果たしてきたのは、県平和運動センター議長を長く務めた山崎秀一さん(64)=現顧問=。土佐高、早稲田大法学部を出て県職員となり、県職労の委員長も歴任した。
 労働運動に入ったのは、中学1年で浅間山荘事件が起きるなどし、以来日本社会や新左翼運動について自分なりに考えたのが原点だという。高度経済成長下でも弱者の側に立ちたいと願う一方で、大学時代は新左翼・革マル派、共産党系・民主青年同盟の双方からの参加要請を断った。「全共闘の主張は理解できるが、やったことは失敗だった」。暴力革命を否定し、民主主義の徹底による社会主義を目指した。
 20歳代から県職労の役員となり、他の組合と協力して未組織労働者の組織化や市民運動との連帯を模索。国鉄(現JR)を不当解雇された労働者の支援にはとくに力を注いだ。ビートルズのファンでもあり、J・レノン同様キューバ革命の英雄チェ・ゲバラに憧れ、墓参のためキューバを訪れたこともある。「政党は自分たちの要求を実現する手段であり、政党のために個人がある訳ではない」が持論で、今は共闘維持のため、最も党員の少ない新社会に籍を置く。
 ただ、総評の分裂と前後して社共両党が互いに非難し合う時期が続いたことで、今も旧社会党系の活動家には共産党への拒否感が強い。反基地闘争の一点で保革がまとまった「オール沖縄」を高知でも、と強調する山崎さんに「お前はいつから共産党になった?」と怒りをぶつける人もいた。
 山崎さんによれば、軍事化連絡会の結成話は平和委員会側から持ち込まれた。同委の事務局長だった和田忠明さんは、社会党系が主流だった高知県交通労組の少数派で、平和運動の傍ら「野党がバラバラでは自公に勝てない」と繰り返していた。国鉄の争議支援で山崎さんと何度も顔を合わせ、「彼となら話ができる、と思ってくれたのでは」と振り返る。

街頭で支持を訴える武内氏
(9月28日、香美市で)
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 高知は保守県政の一方で、高知市は51年から94年まで社共両党の革新市政が続いた。80年代の窪川原発阻止闘争など、住民運動が両党と結びついた歴史もある。大企業が少ないことから、連合高知は他県に比べ自治労など公務系労組の発言力が強く、東京の連合本部のように露骨な「共産党排除」は見られない。
 四国山地と太平洋に挟まれた地勢からか、維新の会などは浸透しなかった。19年の比例代表での得票は自民が9万6408票で最も多く、公明の4万854票、共産の4万391票がほぼ拮抗。立民は3万2136票、国民は1万7492票。日本維新の会は1万2488票で、やはり県組織のないれいわ新選組より599票多いだけ。国民はその後、議員不在となり、県連が解散した。

 共産党の強さは際立っている。初めて小選挙区比例代表並立制で行われた96年の衆院選では、カリスマ的な人気を誇った山原健二郎氏(04年没)が当時の高知1区(高知市の大半。13年の定数減で県内の1~3区が1・2区に再編された)で中選挙区時代から連続10回目の当選を果たし、比例候補だった春名直章氏(現党県委員長)も初議席を得た。その後国会議員は出ていないが、今も県政を左右する力を持つ。
 19年参院選の比例代表得票率は15・12%で京都府に次ぎ、全国平均の8・95%を大きくしのぐ。同じ四国の香川・愛媛両県は5%台、徳島県も8%台だ。県議会と高知市議会でも、会派別ではそれぞれ2位の5人、7人を擁している。

 4年ぶりとなった衆院選で、小選挙区は計6人が名乗りを上げている。高知1区は自民前職の中谷氏と立民前職の武内氏、高知2区は立民前職の広田氏と自民公認の新人で前知事・尾崎氏の対決が焦点だ。
 1区の中谷氏は連続10期当選。陸上自衛官出身で防衛庁長官、安保関連法成立時の防衛相を歴任する一方、安倍政権下で首相に何度も公正で謙虚な姿勢を説いた「良識派」の側面も持つ。
 2区の尾崎氏は40歳の若さで知事となり、強いリーダーシップで県民所得の向上や健康長寿県づくり、防災対策などに成果を挙げた。19年8月に4選不出馬と国政挑戦を発表するまで、共産を含む県議会の全会派と融和関係にあり、地元紙の世論調査による「県政への満足度」は退任直前で89・6%に達した。農水相時代にTPP(環太平洋経済連携協定)参加をめぐり「二枚舌」の批判を受けた山本氏と比べ、広田氏にとって強敵であることは間違いない。
2021/10/14
今こそ政権交代を(下)       ―高知から(9)―
高知1区の街頭宣伝では「野党共同」の大きなのぼりが目立つ
(9月28日、香美市で)
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 今回、共闘成立に至った最大のポイントは、これまで必ず小選挙区に候補を出してきた共産が擁立を断念し、比例四国ブロックだけの戦いとしたことだ。白川容子氏(香川・元県議)と中根耕作氏(高知県委員会)を立てる。小選挙区候補が不在では選挙運動が制約され、内部には異論もあったが、党が全国で進める野党共闘のため「立民の現職2人を支える」と決めた。
 「合意確認書」に盛られた政策は、全国レベルの「憲法に基づく政治の回復」「格差と貧困の是正」など6テーマ20項目を基本に、県独自のテーマ「くらしに豊かな土台を―生きる価値を実感できる県政の実現」を加えた計32項目。県政課題では中山間地の住民を支える農業や福祉の充実、自然エネルギーの確立と地産地消などをうたい、全国課題でも米軍機の低空飛行訓練の中止、消費税率の「5%」への引き下げなどを加えている。

 調印式では、憲法アクションの共同代表のひとり青木宏治・高知大名誉教授が「次期衆院選では自公政権に代わる新しい政治の実現のため、比例も含めて野党の過半数を目指す」とあいさつ、各野党に政策の実現を求めた。
 続いて武内氏と広田氏、立民・共産・社民・新社会の代表と「憲法アクション」共同代表が確認書に署名。山崎さんは報道陣に「中央レベルの合意は市民連合の案を各党が認めたものだが、高知では互いに相談しながらまとめた」とこれまでの蓄積を説明した。
 党の国対委員長代理と県連代表を兼ねる武内氏は「戦争のできる国を作り、公文書改竄などで行政をゆがめた自公政権を変えるのが私たちの責任」、やはり国対委員長代理で元防衛政務官の広田氏は「私の宝である自衛隊の皆さんに、憲法違反の政治で命を賭けさせてはならない。食料自給率が37%まで落ちた今、農林水産業や中小事業者への支援が必要だ」と決意を述べた。
 支援に回る3党の代表は「自民党総裁選はおちょこの中のさざ波。比例の女性候補も含め頑張り抜く」(共産)、「私たちは16年の参院選以来、信頼関係を築いてきた。勝利に向け全力を尽くす」(社民)、「憲法アクションの皆さんに敬意を表する。これは新自由主義と歴史修正主義を止める闘いだ」(新社会)。立民の県連副代表も「皆の力で政権交代を」と力を込めた。
 記者会見では、武内・広田両氏の所信と各党の具体的な支援策が問われた。小選挙区候補の擁立断念について、共産の春名県委員長は「初めての重い決断」とした上で「素晴らしい現職議員が存分の活躍をされており、私たちが出ていく段階ではない。過去4回の共闘体験を生かし、厳しい条件を乗り越えて比例の議席を得たい」。武内氏も比例を念頭に「四国で野党の議席を増やすことに全力を挙げる、ということ」と言葉を添えた。

政策宣伝ビラの仕分けに忙しい支援者ら
(10月5日、香美市の共産党県東部地区委員会事務所)
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 憲法アクションと野党4党は、これまでの国政選挙の結果から県内で彼我の基礎票の差を1~2万票とみて、無党派層に向けた取り組みをしてきた。ただ1区、2区とも、県人口の半数が集中する高知市域以外は広大な中山間・海岸線地域。人口減が進みコロナ禍で集会が開きにくい中、新たな支持者の獲得には苦心している。
 とくに参院議員2期目の13年参院選で敗れた後、全国的な立民ブームに乗って比例復活を果たした武内氏は、手足となる地方議員や党員が少ない。私が住む香美市では8月に「政権交代をめざす香美市民の会」が発足したが、立民の市議はおらず、街頭演説やビラ配りなどは共産の市議(5人)らが全面支援する。父から地盤を引き継いだ広田氏は強固な後援会を軸に国政選挙で3勝1敗ながら、ともに「共闘」なくして当選は望めない。
 共闘効果を高めるため、とくに1区は小選挙区と比例の個人演説会を合同で行い、四国の衆院議員17人全員が男性であることから「女性議員を」と白川氏の当選をアピールする。2区は地域によって共産嫌いの支援者もおり、個別に調整する。立民・共産の党首級のほか、元知事の橋本大二郎氏も応援に来る。
 明るい材料は、9月に高岡郡東区(3町村)で行われた県議補選だ。無所属の県商工会青年部連合会長(43)と共産公認の元小学校女性教員(67)の対決は、共産候補が3927票を獲得、1171票差まで迫った。事実上の野党共闘とはいえ、共産候補の得票率43・5%はこの地区で空前の数字。目先の利益より大義を優先させる英断が、自公政権に不信感を強める有権者の共産アレルギーを払拭させた。
 
 菅首相の突然の退陣表明を受け、自民党総裁・第100代首相となった岸田文雄氏。「私の特技は人の話をよく聞くこと」「新しい資本主義」の自信とは裏腹に、所信表明演説は党内でハト派とされてきた宏池会の流れを封印、安倍元首相らの強い影響をうかがわせた。疑惑まみれの甘利明氏を幹事長に据え、森友・加計問題などの再調査も否定した。
 第2次安倍政権以降の9年間で、政治の劣化は極限に達した。首相のウソを隠すために公文書が改竄され、改竄を命じて部下を自死させた上司が昇進する。野党の追及は「ご飯論法」でやり過ごし、世論の沈黙を待つ。それでいて一部の富裕層が巨額の富を貯え、国民の平均賃金は先進国で唯一下がった。コロナ禍では、貧困にあえぐ人の自死や入院できない患者が続出した。
 国会代表質問での答弁、さらに自民党の政権公約でも、安倍・菅政権の「負の遺産」を転換させる意気込みは感じられない。総裁選で言及した金融所得課税の強化は姿を消し、改憲や軍拡への踏み込みばかりが目立っている。
 首相が代わっても自民が変わらない以上、政権交代が必要だ。今の野党は頼りないと私も思うが、仮に与野党の議席差が「今の半分」なら、与党も緊張して謙虚になるだろう。4割の得票率で6割の議席を得る現行制度のゆがみに加え、採決に持ち込みさえすれば何でも通る現状が、与党議員を堕落させた。
 これまで「何となく」自民・公明に投票してきた方、「何も変わらない」と棄権してきた方にお願いしたい。今回だけは別の党、候補に入れてほしい。安倍氏のように国会で118回もウソをつくこと自体、主権者のあなたや私ををなめている。
 全国的に小選挙区候補の一本化作業が難航しているのは、やはり野党第1党の立民の責任が大きい。本気で政権交代を望むなら、高知の共産のように「譲る」ことも必要だ。現状では「自民と同じレベルの政治家ばかり」と誤解される。戦前と見まがうばかりの反共主義を盾に野党共闘を拒む連合に「こちらから願い下げ」くらいの啖呵を切って初めて、低迷する支持率も上がるのではあるまいか。
2021/08/04
「平和資料館・草の家」の32年(上)   ―高知から(8)― 
<この記事は3部に渡っています。読みやすいように掲載時系列ではなく、上から(上・中・下)と並んでいます>

<石塚直人(元読売新聞記者)>

 コロナ禍がとめどなく広がる中、東京五輪は折り返し点を過ぎた。メディアは連日、日本選手団のメダルラッシュに沸き立ち、開幕までの批判は雲散霧消した感がある。
 今のところ、「とにかく競技が始まれば、皆が熱中し興奮する」という国際オリンピック委員会(IОC)と菅政権の目論見通りだ。これを支えるのは、まず総合・Eテレ・BS1のほとんどを五輪一色にしたNHKだろう。新聞ではやはり産経と読売が目立つ。
 記者なら誰でも知っていることだが、スポーツの取材、とくに写真は一瞬が勝負。緊張の度合いも他の仕事とは段違いで、担当者が一種の興奮状態になるのは避けがたい。とはいえ、組織全体として「熱狂の裏にあるもの」を無視する姿勢は、ジャーナリズムとして失格、というより犯罪ではないか。
 8月1日(日)の朝日朝刊が1面トップに「被爆76年」の連載の第1回として旧ソ連・カザフスタンの核実験場跡地ルポを入れ、2面でカザフと広島のつながりを示したこと、同日の毎日が4面全体を使って3人の被爆者に思いを語らせ、8面で斎藤幸平・大阪市立大准教授の寄稿により「五輪の陰で住宅と人間関係を奪われた」障害者男性の苦悩を可視化したことは、大手メディアとしての面目を保ったと言える。
 読売(大阪本社版)は、第3社会面に「風の子学園(不登校児を預かる広島県内の施設)」で30年前に起きた監禁死亡事件の回顧を入れた。それなりに記者魂を感じさせる記事ながら、東京本社版ではここに何が載っていただろうか。

 前置きが長くなったが、高知では例年、7月から8月にかけて平和のイベントが相次ぐ。連載の第1回で取り上げた「戦争と平和を考える資料展」は、1945年7月4日の高知空襲に合わせ、79年から毎年(2000年までは「高知空襲展」)開かれてきた。89年には高知市が広島原爆忌の8月6日を「平和の日」と定め、以来15日までの10日間、企画展や講演会を実施している。
今年は「戦争展」と「高知市平和の日」記念事業に加え、前回触れた「ビキニデーin高知」の実行委も8月6日から15日までの各1日、県内3か所で「平和のための映画会」を開く。こうした取り組みの中心に位置するのが、89年11月に高知市升形で開館した「平和資料館・草の家」https://ha1.seikyou.ne.jp/home/Shigeo.Nishimori/(岡村正弘館長)だ。

「草の家」の全景。4階建ての3・4階はワンルームマンション
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 「草の家」は、市役所から歩いて5分ほどの住宅街にある。私立土佐高校教諭だった初代館長の西森茂夫さん(2004年没)が、自宅の一部を改築して建設。小規模ながらも多彩な活動ぶりで、世界の平和博物館の中でも異彩を放っている。
西森さんは土佐高から北海道大学に進み、学生寮で友人と討論しながら浪人時代に出合ったキリスト教信仰を深めた。卒業後は札幌市内の私立高に勤め、ここで高知出身の自由民権思想家・植木枝盛と反戦詩人・槙村浩(本名・吉田豊道)の偉業を知ったことから帰郷を決意。67年に母校の理科(生物)教諭となった。
以来、自由民権運動やプロレタリア文学運動を研究し、空襲展を始めた「高知空襲と戦災を記録する会」や、83年に発足した「自由民権記念館建設期成会」の中心メンバーだった。
 「記録する会」は、市民から寄せられた戦時資料の保存のため、早くから平和資料館の建設を提唱。自由民権記念館の建設運動が始まると、最初はその一部を転用、後には独立の施設とする方向で高知市に働きかけた。しかし、市は動かなかった。
85年5月には「平和資料館・草の家をつくる会」が発足した。ユニークな命名には、詩文に優れたロマンチスト西森さんの思想が強く反映している。「草の家」は草の根の民主主義を表す一方、大地に根を張った文字通りの「草」でもあり、反公害運動なども含め、生命そのものを慈しむ場となることを目指した。

 高知市との膠着状態が続く中、「あんたが建てるしかない」と西森さんの背中を押したのは、妻の遼子さん(83)。札幌市の出身で、北大学生寮の会計係として西森さんと知り合い、結婚した。ネックとなる資金問題をクリアするため、館をワンルームマンション付きにし、家賃収入でローンを返済するプランも提案した。
 思い切った決断が会員らを勇気づけ、毎年夏に続けてきた空襲展や「平和七夕まつり」なども追い風となった。「草の家」は高知市制百年の89年4月に着工。11月に鉄筋4階建ての建物が完成した。
1階116平方メートルは学習会や映画会、音楽会などに使える多目的ホール兼展示室、2階88平方メートルは情報資料室で、3・4階は賃貸マンション(8戸)。建設費約6200万円は夫妻が持ち、市民から集めた募金約500万円はピアノや映写機機を含む備品購入に充てた。遼子さんがローンを完済したのは、わずか2年前のことだ。

 「草の家」は長く「加害・被害・抵抗」の3つを柱に活動してきた。それぞれ「中国平和の旅」と県内で働かされた朝鮮人の実態調査、高知空襲、侵略戦争反対に命を賭けた先人の発掘などで、その内容は自前のブックレットでも紹介している。数年前からは4つ目の柱として「創造」を加え、友好団体とも協力しながら、平和運動を未来につなぐ新たな取り組みを始めた。

 第1回「中国平和の旅」は、91年8月に西森さんら10人が8日間にわたって訪中し、県出身者でつくる陸軍歩兵第44連隊が転戦した上海、無錫、南京などで体験者の証言に耳を傾けた。
 「ここまで侵略の事実を確かめに来た日本人は初めて」と地方政府の担当者に歓迎される一方、「村民が殺した豚や鶏を差し出したが、日本軍は何も聞かずに発砲した。皆が逃げると家を焼いた」「母と2人の姉は輪姦されて殺され、8歳だった私も銃剣で刺された」などには、全員が絶句するしかなかったという。
 以来、「旅」は98年9月まで計6回。2回目はバスに4時間揺られて着いた山岳地帯の村で、「日本人の顔など見たくない」と話す長老と本音のやり取りをした。6回目は、旧731部隊による細菌実験の犠牲者を生んだ湖南省常徳市に足を運んだ。
 92年には、67年に日中友好協会県連合会などが提唱したまま高知市の設置許可が下りずにいた「日中不再戦碑」を、同会と協力して高知城近くの公園に建立。翌93年には、第1回から通訳兼ガイドを務めた中国人女性(祖父が日本軍に殺された)が、参加者の招きで高知大に留学するエピソードも生まれた。

 強制連行や徴用による県内の朝鮮人労働については、高知大史学科に学んだ研究員の馴田正満さん(73)らが、情報公開請求や文献調査で多くの事実を明らかにした。
 92年には、県が53年に出した「高知県営電気事業史」第1巻に、発電所工事のため「朝鮮に電気局員を派して労務者321名の募集に成功した」との記述を見つけた。当時の朝鮮総督側近が「募集」の内実を「農作業の最中に説得してトラックに乗せ、そのまま連行して北海道や九州の炭鉱に送り込む」などと書き残しており、大半は民間人が代行、県が直接関与した例は珍しいという。07年には県議会で議員が再調査を求めたが、県は応じなかった。
 
高知空襲で焼けた市街地の写真(上)と市民から寄せられた資料
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 「草の家」は発足以来、「高知空襲と戦災を記録する会」とともに空襲展を支え、92年12月に「戦争語り部の会」を発足させた。戦争体験者16人が小学校などで語り始め、今も退職教員の橋田早苗さん(68)らが引き継いでいる。
 二代目館長の岡村正弘さん(84)は8歳の時、高知空襲で母と2歳の妹を亡くした。防空壕が熱くて飛び出し、猛火の中を独りでさまよう。何とか父や兄姉と再会、夜が明けて兵隊たちが壕から黒焦げの遺体を掘り出すうち、妹を抱いたままの母と対面した。
 98年に高知市民病院の放射線技師を退職した岡村さんは、西森さんの勧めで語り部となった。最初に訪問した同市立春野東小学校では、母の遺体を見つけた場面で涙があふれ、言葉に詰まった。約300人の児童は黙って続きを待っていた。
 岡村さんの体験は紙芝居にまとめられ、岡村さんは2000年から元看護師の妻花子さん(82)と紙芝居公演を続けてきた。花子さんが体調を崩して3月に引退した後は、「草の家」のメンバーが同行する。回数を数えたことはないが、最低でも年に10回以上、計300回近くにはなるという。
 「先生方は『うちの子は集中しない』と謙遜されるけど、どこでも真剣に聞いてくれる。土佐弁まる出しじゃから違和感がないのかもしれん」と岡村さん。
 「記録する会」が始めた高知空襲の犠牲者調査は2003年、岡村さんらが約400人分の犠牲者名簿を市に提出した。市はこれを受けて大原町に「平和祈念の碑」を建て、翌年7月4日に除幕。以来毎年この日に「平和祈念式・追悼集会」が開かれている。
(続く)
2021/08/04
「平和資料館・草の家」の32年(中)   ―高知から(8)― 
<石塚直人(元読売新聞記者)>

多目的ホールで思い思いに活動する会員ら(左端が岡村館長)
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 「抵抗」は、槙村に対する西森さんの敬慕の念が出発点だ。彼は西森さんと同じ市立第六小の在籍中から神童として有名で、長じて軍事教練に反対して中学を追われ、共産主義運動に入った。代表作に、植民地朝鮮の独立運動をたたえた「間島パルチザンの歌」(32年)がある。
 高知刑務所での拷問により38年に26歳で早逝したが、彼とともに第44連隊兵営で反軍ビラをまいた元同志らは、63年に創刊した雑誌「ダッタン海峡」で故人を顕彰。西森さんは77年に同誌を復刊し、9号まで出した。84年に元同志が出版した「槙村浩全集」にも協力、刊行後に発見された論文「日本詩歌史」などを「草の家」で刊行した。
 「ダッタン海峡」10号は槙村生誕100周年の14年、「草の家」から発行。彼と同時代の活動家や、当時の共産主義運動の記録を含む貴重な文献となっている。 

 「創造」は、館の活動が広がるにつれ、3本柱ではカバーできない分野に及んだことで追加した。とくに力を入れる戦争遺跡の保存では、高知市曙町にある旧陸軍歩兵44連隊跡地を高知県が財務省から買い取る原動力となった。地方の平和資料館としては珍しく、早くから欧米・アジアとの連携を打ち出してきたことも特筆される。

 戦争遺跡の保存活動をリードするのは、古参会員の出原恵三さん(65)。奈良大史学科を出て帰郷後、高校教諭を経て県教委で埋蔵文化財調査を長く担当、16年春に定年退職して副館長となった。戦争遺跡保存全国ネットワーク(事務局・長野市)の共同代表も務め、広島市の旧被服支廠の保存運動などにも尽力する。
44連隊跡地は戦後、大半が高知大学の朝倉キャンパスとなったが、一部が大蔵省(現財務省)印刷局の施設として残り、弾薬庫と講堂が現存する。高知財務事務所が11年に売却方針を示したことから、「草の家」が地元有志とともに保存運動に取り組み、紆余曲折を経て19年、県が買い取りを表明した。現在、弾薬庫などとその周辺をどう生かすか、県が検討を進めている。

平和憲法の誕生を伝える展示。
きちょうめんな文字に創設者・西森さんの願いがこもっている
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 戦跡調査は意外な副産物も生んだ。出原さんは11年、東京の防衛省防衛研究所・戦史研究センターで、中曽根康弘元首相(故人)が海軍主計中尉時代、ボルネオ島で慰安所の設置に深く関与したことを示す文書を発見した。兵士らの争いを治めるため「主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設 気持の緩和に非常に効果ありたり」と記されていた。
中曽根氏は78年刊の回想録で慰安所に触れているが、その後は記者らの質問に「碁を打つなどの休憩所だった」と答えてきた。文書が事実ならウソをついたことになり、「草の家」が記者会見、朝日や高知新聞が報じた。出原さんが当時、県職員だったことから、会見は馴田さんらが代行した。「草の家」は中曽根氏に公開質問状を送ったが、回答はなかった。

 国際的な平和博物館との連携は、高知大の非常勤講師だった山根和代さん(現立命館大客員研究員)が、92年に英国で開かれた第1回平和博物館国際会議で、10か国からの参加者に館の活動を報告したのが始まり。3年ごとの会合で知り合った多くの関係者が「草の家」を訪れ、同館からも93年、憲法九条を紹介する11か国語の土佐和紙カードを107か国の元首に送るなどした。
 米スミソニアン博物館が国内の反対で広島原爆資料の展示を断念した95年には、同国デトロイトの平和センターに被爆者の写真パネルを提供。同年に国連が発行した冊子では、広島平和記念資料館などと並び、世界の50平和資料館の1つとして掲載された。

 「草の家」の国際連帯活動で忘れられないのが、韓国人の金英丸さん(48)だ。強制連行された朝鮮人の遺骨探しなどを手がける中で2001年、研修生として着任、事務局長を任された。巧みな日本語を生かして学校や公民館で韓国の歴史・文化を語り、高知大で平和学の非常勤講師も務めた。06年の帰国後はソウルのNGО「民族問題研究所」で活動している。
 山根さんは10年に高知を離れ、京都で大学の講義や「平和のための博物館国際ネットワーク(INМP)」の機関紙編集などに忙しい。代わって国際交流を担うのは、前回の「ビキニ被災を追って」で触れた岡村啓佐さん(70)。被爆者・被曝者の人権保障をライフワークにし、12年に副館長となった。「英語が話せないので」と謙遜しつつ、「ピースボート」で各国の若者と平和を論じ合うなど活発に行動している。

玄関を入ると事務室がある
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 「草の家」ができた89年秋、私は記者10年目で姫路支局にいた。88年春までの高知勤務で西森さんとも親しく、「つくる会」の会員でもあった。
 しかし竣工式には参加できず、初めての訪問は2度目の高知勤務が始まった94年春。同年秋の「草の家だより」は、「日本の軍事費は英仏を上回る507億ドル」などとともに「コメの輸入自由化も広義の平和問題」と環境を守る取り組みも訴えた。翌95年には、会員が所有する大豊町の山林伐採跡地25ヘクタールを舞台に、自然林の育成を目指す「憲法の森」事業も始まった。
96年には「第18回高知空襲展」を軸に「高校生平和祭」「平和演劇祭」など計11件まで増えた平和行事を「ピースウェーブ」と総称、事務局を「草の家」が担当するスタイルが生まれた。これは今も続いている。

 私は94年から2年間、主に県庁や高知市役所を取材し、支局デスクを経て98年春、大阪本社に異動した。最初の5年間は家族を高知市に残して単身赴任。帰省のたび「記録する会」梅原憲作さんらに会い、彼の仲介で金さんとも意気投合した。家族とともに兵庫県西宮市に引っ越した後の2005年夏には、戦後60年を期して「草の家」が出した「高知・20世紀の戦争と平和」(A5判、203ページ)に一文を寄せた。

 18年ぶりに高知に戻った16年以降は、「草の家」でも新たなメンバーと知り合った。学芸員の藤原義一さん(74)はこの年、槙村浩の生涯と当時の社会情勢を紹介する評伝「槙村浩が歌っている」を出したばかり。高知大在学中に作品に触れ、還暦を過ぎてから高知県立大の修士課程で詳しく研究したといい、地方版で刊行を報じた。
第44連隊跡地の保存問題では、地元見学会やシンポジウムにも足を運んだ。30年以上前、古代遺跡の発掘現場で取材した出原さんとの再会は、時の流れを感じさせた。
 「草の家」は創立30周年の19年、2度の「韓国の旅」を実施し、同国の「植民地歴史博物館」と友好協力協定を結んだ。海外施設との協定は、16年の中国「侵華日軍第731部隊罪証陳列館」に続くもの。11月には記念誌を出版、祝賀会も開かれた。

 退職後の昨年夏から役員となり、月例会に参加して痛感したのは、連携する運動団体の多いことだ。「ピースウェーブ」だけでも県生活協同組合連合会、高知平和美術会、新日本婦人の会など。「ビキニデーin高知」実行委や「原発をなくす県民連絡会」「郷土の軍事化に反対する県連絡会」などにも加わっている。
(続く)

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