2021/05/14
ビキニ被災を追って(上)      ―高知から(7)―
<この記事は3部に渡っています。読みやすいように掲載時系列ではなく、上から(上・中・下)と並んでいます>

石塚直人(元読売新聞記者)

核被災者の支援を巡り、活発な意見交換が行われた全体集会(3月7日)
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 1954年に南太平洋ビキニ環礁周辺で行われた米国の水爆実験で延べ約1000隻の漁船が被曝した「ビキニ事件」から67年が過ぎた3月、被災者を支援する高知の市民団体によるイベント「ビキニデーin高知」が、県内各地で10日間にわたって開かれた。
 この事件では第五福竜丸・久保山愛吉さんの死が広く知られるが、他の船の被災については36年前に高知の高校生らが掘り起こすまで、長く闇に包まれてきた。被害の全体像がほぼ明らかになったのはこの10年足らずで、関係者の粘り強い調査活動の賜物だ。
 高知では2016年から、多くの元漁船員らが難病に苦しみ早逝したのは国が被曝の事実を隠し、救済措置を怠ってきたせいだとして、裁判闘争が取り組まれてきた。今年1月には核兵器禁止条約が発効した。「ビキニデー」はこれらを受け、裁判の支援とともに世界の核被災者との連帯を高く掲げた。米国の核政策に追従してきた日本政府には、抜本的な政策転換が求められている。

 ビキニ水爆実験は、54年3月1日から5月5日まで計5回(キャッスル作戦としてはエニウェトク環礁での5月14日を含む6回)行われ、最初の「ブラボー」実験で被曝した第五福竜丸が3月14日に静岡・焼津港に戻ったことから世界的な注目を集めた。
 第五福竜丸はビキニ環礁の東約160キロ、米軍の設定した危険区域外で操業していたが、夜明け前に乗組員が巨大な火の塊を目撃、数分後に轟音と衝撃波が襲い、朝になって無数の白い粉が降ってきた。放射能を帯びたサンゴの粉末で、元漁労長の証言では「ビヤーッと横なぐりにぶつかってきた」という。夕方から眩暈や頭痛、吐き気、下痢などの症状が出始めた。粉が付着したところは火傷のようにただれた。
 乗組員23人は医師から原爆症を疑われ、全員が28日までに東京の病院に移送された。連日の報道で放射能不安が広がり、政府は太平洋から帰港したマグロ漁船に検査を義務づけ、一定以上の放射能を検出した魚の廃棄を命じた。
 同年12月までにマグロを廃棄した漁船は延べ992隻(後述する米国からの見舞金の配分決定時=55年4月=の閣議決定、うち高知県は270隻)に達した。同じ船によることもあり、実数は約550隻。月別では水爆実験が終わった6月以降に急増し、11月の162隻が最も多い。
 初期は核爆発時の「死の灰」を直接浴びたケース、その後は海水中の放射性微粒子がプランクトンや小魚に吸収され、それをマグロが食べた食物連鎖によるものだ。「死の灰」は成層圏まで噴き上げられた後、粒子となって長い間、広い範囲に降り注ぐ。半減期が300時間弱のバリウムなどはともかく、28年のストロンチウム90や30年のセシウム137などは、実験のたび海に蓄積されていった。

全体集会で活動をアピールする幡多ゼミОBと顧問ら
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 「原爆マグロ」と呼ばれて他の魚も含め価格が暴落し、水産業界が大きな打撃を受ける中、第五福竜丸以外の漁船員の健康は後回しにされた。汚染マグロの廃棄自体、日本からマグロの缶詰を大量に輸入していた米国側の意向が働いた。船体の汚染がひどい場合は漁船員の被曝検査も行われたが、結果が本人に知らされることはほとんどなかった。
 4月15日から5月4日までビキニ海域で操業し、帰港時に第五福竜丸以外で最も高い放射能値を検出した「第八順光丸」の川淵秀馬さん(故人、高知県宿毛市)は「風呂に入って、頭を何度も何度も洗え」と指示されただけだったという。後にかゆみや脱毛、めまいや倦怠感などの症状が出たものの、繰り返し出漁した。海では放射能を含んだスコールを浴び、汚染された魚を食べて過ごす。仮に体調が悪くても、生活のため我慢するしかなかった。
 政府が12月末で放射能検査のすべてを打ち切ったことは、同月のマグロ廃棄漁船が114隻に上ったことを考えると、犯罪的とも言えるだろう。科学的な根拠が乏しいにもかかわらず「安全」と宣言し、多くの国民がそれを信じた。汚染マグロが食卓に供せられ、55年以降に出漁した漁船・船員の被曝データは一切ない。
 米国はキャッスル作戦の後、56年、58年に2作戦、計32回の核実験をビキニ・エニウェトク両環礁で実施した。日本政府の調査船も周辺海域で海水・大気の著しい汚染を確認したが、操業停止などの措置は取られずに終わった。貨物船や捕鯨船などを含めれば、この間で被災船が実数で1000隻、船員数で2万人を超えるのは間違いあるまい。

 日米両政府は54年春、第五福竜丸の被災が水爆開発の妨げになる、と危機感を募らせた。米国の原子力委員長は「被災報道は誇張されている」と乗組員のスパイ容疑まで仄めかし、岡崎外相は「自由主義陣営の日本が水爆実験に協力するのは当然」と言い切った。
 それでも連日のマグロ廃棄に加えて放射能雨が報じられると、抗議運動に火がついた。東京都杉並区では、鮮魚商の訴えから4月に区議会が水爆禁止を決議、主婦らによる署名運動は7月10日までに区民の71%、27万8733人を集めた。8月8日には同区公民館を事務局として「原水爆禁止署名運動全国協議会」が結成され、署名は12月までに2000万を超えた。
 この年5月時点で、水産業界が集計し政府に示した損害額は約25億円、米国が非公式に提示した補償額は5400万円だった。日米両政府は交渉の末、翌55年1月「見舞金7億2000万円を支払い、今後は新たな被害が出ても米国の責任を問わない」旨の交換文書を発表した。
 見舞金の配分は、水産業界に5億8400万円、流通・加工業者らに4100万円など。9月に亡くなった久保山さんの遺族には550万円、他の乗組員22人には4400万円を慰謝料とした。これは出漁中に命を落としてもわずかな補償しかなかった業界で妬みの対象となり、ビキニ事件を「第五福竜丸事件」に矮小化する役割を果たした。
 同年5月20日には、22人が一斉に退院した。自宅療養との名目ながら、これも幕引きの一環であり、誰もが再就職の当てもなく苦しい人生を強いられた。

 ビキニ事件と前後して、政府は原子力の「平和利用」キャンペーンを展開した。日本の原発は、54年3月2日に中曾根康弘代議士(後の首相)らが原子力研究開発の予算案を国会に提出したのが起点とされる。55年12月には原子力基本法が成立、翌年1月に原子力委員会が設置され、初代委員長に正力松太郎・北海道開発庁長官が就いた。57年には科学技術庁の初代長官も兼ねた。
 正力氏は24年に警視庁警務部長から読売新聞社長となり、54年7月から69年まで(大臣在任中を除く)社主の座にあった。米国中央情報局(CIA)と連携して「原子力平和利用博覧会」を55年11月から1年半かけて全国10か所で開き、読売新聞と地元紙・テレビが原発によるバラ色の未来を演出して約220万人を集めた。55年8月に第1回原水爆禁止世界大会が開かれた広島市でも翌年夏、約11万人が訪れた。

全体集会で基調提案する山下正寿さん
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 闇の中の「ビキニ事件」を掘り起こしたのは、高知県西部の幡多地域で83年に結成された「幡多高校生ゼミナール」の生徒たちと、県立宿毛工業高校教諭だった山下正寿さん(76)=現太平洋核被災支援センター事務局長=ら地域9校(分校を含む)の顧問教員だ。「足もとから平和と青春を見つめよう」を合言葉に、学校の枠を超えて戦争などにまつわる地域の近現代史を学んでいた。
 研究テーマは生徒たちと議論して決め、面談調査などは顧問が相手と調整し、事前学習を経て臨む。戦後40年で地元の被爆者調査がテーマだった85年3月下旬、山下さんと西村雅人さん(当時、県立宿毛高大月分校教諭)は県被爆者友の会の役員だった岡村利男さん(故人)から「うちの息子は長崎の後、ビキニでも放射能を浴びて自殺した、と話している女性がいる」と聞かされた。
 山下さんは最初、第五福竜丸の乗組員かと思ったという。ほどなく上岡橋平さん(同県立清水高校教諭)も加えた3人が、宿毛市内の漁村・内外ノ浦に藤井馬さん(故人)を訪ねた。彼女は一男一女とともに長崎で被爆した後、郷里の宿毛に戻ったといい、息子の話題になるや「ビキニで」と語り始めた。
 息子の節弥さんは第五福竜丸と同じ頃、遠洋マグロ漁業の基地だった室戸のマグロ漁船に乗ってビキニ海域で操業。その後も船を替えて出漁を重ねるうち体調を崩し、二重被曝の恐怖に怯えながら入院先の神奈川県で60年8月に入水自殺した。27歳の若さで、被曝時の船名は不明とのことだった。
 さらに調べるなら室戸だが、200キロ以上離れ、往復するだけで1日かかる。まず5月に高知新聞社(高知市)を訪れ、3月1日にビキニ近くで操業していた県内漁船4隻の名前をマイクロフィルムで確認した。第五福竜丸平和協会(東京)にも照会した。送られてきた資料集からは、かなりの県内マグロ漁船から放射能が検知されていたことがわかった。新聞報道一覧表には、県立室戸岬水産高校生の谷脇正康さんが54年5月の漁業実習後、白血球が長期にわたって減少した(9月30日、大阪毎日)との記述があった。

 高校生の名まで浮上したことで、顧問らは6月7日に室戸に向かった。途中の安芸市では、室戸で船員同志会の事務局長だった男性から、浦賀(横須賀市)に多くの県出身者がいたこと、被曝についても調べたが証言は得られなかったことを聞き出した。宿舎の船員保養所で見た全日本海員組合の機関紙には、56年の核実験で貨物船員が被曝し2人が亡くなり、元同僚が「被害は他にもあったはず」と語った記事が載っていた。
 翌日は船主組合や船員組合、当時業界の重鎮だった人たちを訪ねた。室戸岬水産高校では谷脇さんが卒業を待たず亡くなったこと、近くに住む妹からは兄が相撲部員で頑健だったことを確認した。ただ、地元で彼の死がなぜか秘密にされている、とも感じたという。
 山下さんらは6月18日、東京に飛び、節弥さんの姉から故人の船員手帳などを借りた後、入院先や第五福竜丸展示館などを回った。船員手帳で被曝時の船を特定するつもりだったが、手帳は50年から53年10月までの乗船歴の後、12ページ分が破り捨てられていた。高知社会保険事務所で見た船員保険の記録も、54年分は8月以降だけ。運輸省の台帳からも、手帳の番号は消えていた。
(続く)
2021/05/14
ビキニ被災を追って(中)      ―高知から(7)―
石塚直人(元読売新聞記者)

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多くの見学者を集めた写真展(3月13日)
謎は残されたものの、2人がビキニ被曝の犠牲者だった可能性は極めて高い。6月中には生徒たちが馬さん方を訪れて話を聞き、近所を回って当時ビキニ海域で操業した漁船員がいないかを尋ねた。すぐに何人もの関係者が見つかった。
 当時のゼミ生は約50人。ほぼ毎週のように、顧問が入手した船員名簿を頼りに数人ずつが分担して元漁船員宅を訪ね、当時の仕事内容や体調の変化を聞き取った。東部の大方町(現黒潮町)などでは、集会所も使われた。幡多14漁村すべてにビキニで操業した漁船員がおり、「仲間が何人もがんで死んだ」「10年ほど前から肝臓障害や手足のしびれがひどい」などと証言した。
 7月には室戸市での1泊2日調査にも着手した。幡多は沿岸・近海漁業が中心で、遠洋マグロ漁船の多くは室戸か室戸岬が母港だったからだ。生徒たちは早朝から各地の顧問宅などに集まり、まず合流地の中村市(現四万十市)を目指した。宿毛市内の山下さん方の集合時刻は午前4時。「ワゴン車に生徒7人が乗り、歌ったりしゃべったりでとにかく賑やか。参加を求めたことは一度もないのに、よく続いたと思う」と振り返る。
 室戸調査は最初、難航した。魚価暴落への恐怖から業界全体が被曝をタブー視してきた歴史があり「何も話すことはない」と口をつむぐ人が大半だった。それでも2度3度と訪ねるうち、「わざわざ遠くから来て、真剣に話を聞いてくれる」と共感の輪が広がっていった。

 ただ、同じ人が多くの漁船を乗り継いだり、同郷グループが三崎(神奈川県)など他県の船に乗り組んだりの例も多く、高校生と顧問の調査には限界があった。山下さんらは9月に医師や科学者、平和団体メンバーらを含む「県ビキニ水爆実験被災調査団」を結成、幡多ゼミは高校生としての調査や学習・交流活動に専念することにした。
 86年4月までに両者で県内の被災者83人を調べ、うち22人ががんなどで亡くなり、生存者の多くに内臓疾患や皮膚病などが見られた。調査団はこの年、土佐清水市と室戸市で初の健康相談会を開き、計18人が訪れた。担当医師は「ここ5年ほどでがんが急増しており、行政による大規模調査が必要」と指摘した。
 両市による追跡調査も行われ、県内各地に「被災船員の会」が生まれた。幡多ゼミは85年8月の原水爆禁止世界大会(長崎)に代表を送り、翌年からは全国高校生平和集会で取り組みを報告した。顧問団は86年夏、ビキニを含むマーシャル共和国を訪れて現地の被曝者と交流した。87年には全県組織「県高校生ゼミナール」ができた。
 生徒たちは先輩から後輩へと活動をつなぎ、全国に交流の輪を広げた。焼津では地元中高生らと学習会を持ち、久保山愛吉さんの妻すずさんに面会した。89年からの沖縄調査では、当時ビキニ海域にいたマグロ漁船2隻の乗組員68人中17人が40~50代で死亡(11人はがん)、米国占領下で放射能検査の結果は知らされなかったことを学んだ。
 これらの活動は、森康行監督のドキュメンタリー映画「ビキニの海は忘れない」(90年、ナレーターは吉永小百合さんら)や全国教研集会で広く紹介された。

 しかし、調査団の活動は92年頃からストップした。約200人に及ぶ追跡調査を受けて90年6月県議会に提出した「被災船員の医療補償に関する請願」は、自民党の反対で不採択となった。「船員の会」の代表らが次々に入院・死亡する不運にも見舞われた。調査の結果を裏付ける文書の入手も、政府の「資料がない」の壁に阻まれてきた。
 幡多ゼミの活動も、映画化後は朝鮮人の強制連行に主軸を移した。四万十川上流の鉄道やダム建設に動員された彼らの足跡を掘り起こし、92年のNHK「青春メッセージ」で最優秀に選ばれた神戸朝鮮高級学校の女生徒を招いて相互訪問を重ねた。翌年夏には韓国を訪れ、元慰安婦や高校生と対話した。一連の取り組みは映画「渡り川」(94年)に結実し、2003年夏の釜山合宿からは毎年の日韓交流が定着した。
 山下さんは教員を退職後も顧問としてとどまり、ほとんど独力でビキニ調査を続けていたが、被災50年を翌年に控えた03年11月、周囲に呼びかけて調査団を再開。2隻の元船員26人の追跡調査では、死者の半数が70歳未満で、後年になって突然発症する晩発性障害だったことを裏付けた。
 調査団が翌年3月に出した「もうひとつのビキニ事件」(平和文化刊)は、韓国のマグロ漁船が被災した可能性にも触れ、改めて医療補償制度の充実を訴えた。05年1月には、名称を「高知県太平洋核実験被災支援センター」(福島原発事故が起きた11年からは「太平洋核被災支援センター」)と改めた。

 04年から山下さんらの活動を追った南海放送(愛媛県)は、この年10月から全国放送「NNNドキュメント」でビキニ被災問題を相次ぎ放映。10年には米国エネルギー省のホームページから、キャッスル作戦に伴う放射性降下物について重要部分が削除されていた公文書を復元した。これらを集大成した「放射線を浴びたX年後」(12年にテレビ放映・映画化)は、各界から高い評価を受けた。
 13年にはNHK広島放送局が、米国公文書館でビキニ被災船のリストを発見、海上保安庁や厚生労働省から米国に送られていた調査資料も確認した。
 14年8月には、同放送局制作のNHKスペシャル「水爆実験 60年目の真実」が放送された。放射線物理学など各分野の専門家と山下さんらが連携し、元船員らの歯や血液を分析して被曝との因果関係を明らかにする一方、米国公文書館のデータも紹介。米国の元高官は「ソ連との核開発競争のため、邪魔になるデータはすべて隠した」と証言した。
 同年9月には、同センターなどの請求で厚労省が関係文書を開示した。船員の血液検査結果などは黒塗りとされ、野党国会議員の追及で1か月後にようやく公表するありさまだった。
 
 一定の公的資料が明らかになったことで、16年2月に被災者と遺族10人が全国健康保険協会に労災認定を申請した。5月には山下さんら45人が国を相手取り、国家賠償請求訴訟を高知地裁に起こした。労災申請は「病気と被曝の因果関係が確認できない」、国賠訴訟の1・2審は「国が隠蔽してきたとは言えない」などとして、それぞれ19年末までに棄却された。
 しかし、判決は第五福竜丸以外のマグロ船員の被曝を認めた上で、国に救済策の検討を求めた。原告団は高齢化した被災者の救済を優先させて上告を断念。昨年3月、同協会と国を相手取って行政処分取り消しと損失補償を求める「ビキニ労災訴訟」を提起した。
 同訴訟は、被告が東京地裁への移送を求めたことなどで膠着状態ながら、同センターによる被災者調査は今も続けられている。
 
「死の灰」のレプリカ(第五福竜丸展示館所蔵)
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 「ビキニ事件」は私にとって、記者生活で最大の思い出の1つだ。山下さんらの調査が始まって間もない85年6月30日の朝刊1面に「ビキニ“死の灰”犠牲者 久保山さん以外に2人」など4本見出しのトップ記事、2面に「魚価の暴落で漁船員の被曝がタブーとされた」の解説記事を載せた。
 情報源は連載の第1回で触れたUさんこと、梅原憲作さん(故人)。「高知空襲と戦災を記録する会」の事務局長で、高知市立高知商高定時制の社会科教員、県高校教組の役員でもあった。山下さんとも親しく、幡多ゼミ顧問の3人以外では唯一6月の室戸調査に同行し、同月の東京行きも山下さんとの2人旅だった。
 私は教育を担当して5年目、梅原さんとは頻繁に連絡を取り合っていた。4月末には2人の名を知らされ、室戸行きも事前に教わった。「朝日の記者にもちょっとしゃべった」と聞いた後は、対抗意識も芽生えた。第五福竜丸の被災が読売の特ダネだったせいもある。
 だが、特報の喜びはすぐ暗転した。「山下さんが頭を抱えている」と聞かされたからだ。記事で2人は実名だったものの、遺族には名前を公表する旨の了解をまだ取っておらず、梅原さんもそのことは知らなかったという。紙面にある山下さんの顔写真と談話は、彼が高知市に来たわずかな時間に取材しただけで、掲載日も知らせていなかった。
 電話で謝りこそすれ、しばらくは「これで調査を断られれば自分のせい」と気が気でなかった。1か月後に書いた高知新聞(7月30日夕刊)は、藤井さんを実名、谷脇さんをTさんとしていた。同紙が圧倒的なシェアを誇る高知県で、読売の部数はわずか1万部ほど。関係者の目に触れないようにと祈りつつ、ときどき梅原さんに経過を尋ねた。問題化しなかったのは幸運と言うしかない。
 当時の読売高知支局で、室戸市は室戸通信部、幡多は中村通信部の管轄だった。私は82年秋から教育と高知市政を掛け持ち、その後県政サブ担当も兼ねた。88年に大阪本社に異動し、転勤を重ねて94年に再び高知へ。98年からは本社で18年を過ごした。
 梅原さんはこの間「記録する会」の会長や県高齢者福祉生協の理事長を歴任、12年前に亡くなった。新人時代の79年秋に出会って意気投合し、大阪在勤中も何度となく高知を訪れて歓談したのが懐かしい。
 山下さんとは、大阪に移って1年が過ぎた99年4月、四万十川上流の西土佐村(現四万十市)で再会した。彼が退職後に廃校を利用して始めた自然体験宿泊施設「四万十楽舎」を月1回の全国向け特集記事で紹介するためで、その行動力には改めて目を見張った。

 ビキニ事件と再び出合ったのは、嘱託記者として高知に戻った2016年春。訴訟は司法担当記者の領分ながら、元漁船員らの証言集が出版されたこと、生徒減で活動を停止していた幡多ゼミが再出発したことなどを他社の記事で知ると、自然に体が動いた。
 18年12月には、同センター副代表の岡村啓佐さん(70)が証言集の一部を日英両語で紹介した写真集「NО NUKES(核はいらない)」を近く出版すること、翌年5月には、幡多ゼミが被災者支援のDVD教材「核被災と核兵器禁止条約」を作ったことを地方版のトップ記事にした。

 岡村さんは、幡多ゼミと藤井さん母子を結びつけた岡村利男さんの甥に当たる。94年から県内の広島・長崎被爆者の写真を撮り続け、99年にはビキニ被災者も加えた写真集「高知の被爆者」を出した。15年秋には長崎で被爆した土佐清水市在住の横山幸吉さん(91)を撮影に訪れ、偶然伯父の名を口にしたことで「自分は54年春にビキニでも被災した」と打ち明けられた。
 被爆者手帳を入手する時に尽力してもらったといい、横山さんは国賠訴訟の原告団にも加わった。幡多ゼミの再出発も、横山さんへの聞き取り調査がバネとなった。岡村さんは「伯父と自分が30年を隔てて、長崎とビキニの二重被曝者に出会ったのも何かの偶然」と新たな被災者の発掘に意欲を燃やす。
 幡多ゼミは、18年夏に広島で開かれた全国高校生平和集会に参加し、9月には旧ソ連時代に数百回の核実験が行われたカザフスタン出身の女子留学生を高知に招いてビキニ被災漁船員の証言を聞いた。19年夏には、10年前に四万十川上流の津賀ダム近くに建てた朝鮮人労働者慰霊碑の記念式典を地元で開き、韓国の高校生や教員も参加した。
(続く)
2021/05/14
ビキニ被災を追って(下)      ―高知から(7)―
石塚直人(元読売新聞記者)

 「ビキニデーin高知」は、同センターなど20団体による実行委が主催。3月5日から14日まで高知市立自由民権記念館で核被災写真展が開かれたほか、6日は室戸、幡多の2コースに分かれて元マグロ漁船員や遺族と語り合うフィールドワーク、7日は全体集会が行われた。13日は高知市、2月28日は室戸市で、ビキニ被災にまつわる2本の映画が上映された。日本原水協など平和団体が支援、3・1ビキニデー焼津集会からもメッセージが届いた。
 全体集会は、オンラインを含む約250人が参加した。幡多ゼミОBらによる活動紹介に続き、2年前から県内で取り組まれている紙芝居「ビキニの海のねがい」が披露された。山下さんは基調報告で、日米両政府による政治決着に伴い第五福竜丸以外の被災が隠蔽されてきた経過を詳述。日本政府に核兵器禁止条約の批准を求め、世界の核被災者によるネットワークづくりを呼びかけた。

 パネル討議では、同センター共同代表の濱田郁夫さん(元教員)が室戸での調査について「昨年は70軒を訪問した」と報告、汚染された海に5回も出漁するなど漁船員の苛酷な労働実態を説明した。ビキニ労災訴訟原告団長の下本節子さん(遺族)は「加害者の米国が都合よくまとめたデータだけを使い、被災船員からの聞き取りもせずに不支給を決めた」と国や協会の不誠実を非難した。
 同訴訟弁護団の大野鉄平弁護士は、日弁連が昨年夏にまとめた「元漁船員らの健康被害に対する救済措置を求める意見書」を引いて補償や健康相談を要求。国の情報不開示が国際人権規約に違反した可能性を指摘し、国連など海外を見据えた情報発信に取り組みたいとした。
 入社6年目の毎日新聞記者松原由佳さん(現東京学芸部)は、高校時代に講演を聞き19年に取材で再訪した元第五福竜丸乗組員の大石又七さん(3月7日に87歳で死去)、国賠訴訟の原告団長で昨年12月に83歳で亡くなった増本和馬さんらの思い出を語り、「ビキニを伝えるため何ができるか、これからも考え続けたい」と結んだ。
 続く記念講演では、自身も被爆二世の内藤雅義弁護士(東京)が昨年7月の広島地裁「黒い雨訴訟」判決に触れ、残留・内部被曝を軽視する国の姿勢を批判。個別の調査を積み上げて内部被曝の全体像を明らかにする意義を強調した。
 核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)国際運営委員の川崎哲さんは、核兵器禁止条約が発効するまでの各国と国際世論の取り組みを紹介した。さらに「当初は効果が危ぶまれたクラスター爆弾禁止条約(08年)も、各国の銀行が製造会社との取引を停止することで生産が激減した」と述べ、確かな展望に基づく国際的な世論づくりを訴えた。
 
 写真展は岡村さんの写真のほか、世界の核実験被災者の取材で知られる写真家森住卓さん、豊崎博光さんの作品計数十点を借り出し、広島・長崎(原爆投下)からビキニを含むマーシャル諸島・旧ソ連セミパラチンスク(核実験)、福島原発事故に至る「核の恐ろしさ」を表現した。
 同じ会場では、第五福竜丸展示館所蔵の「死の灰」のレプリカ、ガイガーカウンター(放射能測定器)、久保山愛吉さんの遺児に宛てて高知の子どもたちが送った手紙なども公開された。最終日には「この手紙は確かに自分が書いた」と75歳の男性が名乗り出た。

 フィールドワークには合わせて80人が参加し、元漁船員からは「中学を卒業した翌日には船に乗った」「マグロ漁は長さ数十キロの延縄を8~12時間かけて巻き上げる重労働」「マグロを捨てるのはつらかった」などの体験が語られた。参加者からは「ビキニ事件は過去の話ではなく、今も現実にあるできごとだと実感した」などの声が出た。
 映画会での上映作品は、新藤兼人監督「第五福竜丸」(59年)と甫木元空監督「その次の季節」(2020年)。「第五福竜丸」は出港から被曝、帰港、久保山さんの死、原水禁運動などを史実に沿って骨太に描き、「その次の」は県西部・四万十町在住の青年監督が元漁船員や遺族らの「今」のコメントをつないで構成した。コロナ禍の中、合わせて134人が訪れた。

 私はフィールドワークを除く行事に足を運んだ。全体集会では、これまでのビキニ事件被災者の苦闘の歩みを改めて思い起こした。「第五福竜丸」では、マグロ漁の苛酷な実態や、患者の治療より被曝データの収集を優先する米国人医師の描写の見事さに感動した。晩年に取材で会った新藤監督の、若き日の執念がしのばれた。

様々の障害を持った子どもが預けられたセミパラチンスク市内の施設「子どもの家」
(1999年9月)
水頭症の赤ちゃん。「子どもの家」で
(1999年2月)
ホルマリン漬けの奇形胎児。セミパラチンスク医学アカデミーで
(2008年11月)
 写真展では、森住さんがセミパラチンスク(現カザフスタン東部)で撮った奇形胎児の写真が目に焼き付いている。現地の医学アカデミー解剖学教室にホルマリン漬けで保存されていたもので、1枚は首の上に頭が2つ、別の1枚は顔の真ん中に大きな目が1つ。ギリシャ神話に出てくる怪物のようで、思わず息を飲んだ。

頭髪が産毛のように薄い12歳の少女。かつらをかぶって学校に通っている(1995年5月)
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 会場で森住さんの著書「新版セミパラチンスク―草原の民・核の爪痕―」(11年、高文研)を買った。
 ここでは四国ほどの面積が核実験場に指定され、49年から89年までに467回の実験が行われた。旧ソ連時代は最重要の軍事機密とされ、カザフスタン独立後もロシアが資料を公開しないため、核被災の実態は不明な点が多い。森住さんは94年8月から08年まで計10回も現地に通い、撮影を続けてきた。
 なじみの医師や村人たちとの交流を綴った文章からは、貧しくても健気に生きる庶民の姿が伝わる。先天性の奇形のため親に捨てられた子どもが暮らす施設では、園長に頼まれて水頭症の赤ちゃんの写真を撮った。それで世界に核被災を訴えてほしいという。しかし帰国して現地の写真を新聞社や出版社に持ち込むと、あちこちで断られた。「因果関係がはっきりしない写真は載せられない、というのだ」と本にある。

 「ここでもか」と暗澹とした気分に襲われた。前回の連載で触れた読売新聞・渡邊恒雄主筆の著書だけではない。山下さんの「核の海の証言―ビキニ事件は終わらない」(12年、新日本出版社)は、79年に朝日新聞西部本社が取り組んだビキニ被災貨物船「弥彦丸」の追跡調査の顛末に触れている。
 当時西部本社社会部デスクだった長谷川千秋さんによれば、長崎県在住の元乗組員が被曝による発病だと訴えたのが発端。取材班は乗組員44人のその後を調べ、「死者を含む半数以上に入院経験があり、皆が健康調査を望んでいる」との元日用特報記事を全本社に送った。しかし、大晦日に東京科学部長名で3人の科学者による否定的なコメントが全本社に流れ、紙面に載ったのは西部本社版だけだった。
 とくに久保山愛吉さんの主治医として放射能障害を指摘しながら、後に国立放射線医学総合研究所長となり「学問的には断定できない」と前言を翻した熊取敏之氏(故人)の「こんな議論は日本の科学者の恥」という悪意に満ちた断言が響いた。彼の影響は今も残り、ビキニ訴訟や黒い雨訴訟で国の主張の根拠ともなっている。
 科学的に被曝との因果関係が立証できるまで記事や写真はダメ、とされれば被災者の救済は遅れ、被害はさらに広がる。それはジャーナリズムの自己否定でしかない。「私にできることは、被曝者の姿、苦しみ、悲しみを映像で伝えること」(森住さん)、「25年間放置され、不安の中にいる人たちの目で判断してほしかった」(長谷川さん)の指摘に共感する。

 それにしても、世界で唯一原爆を投下された国の政府がなぜここまで頑なに加害国の論理にしがみつき、自国の被災者を蔑ろにし、核兵器禁止条約の批准を拒み続けるのか。
 敗戦からようやく立ち直った54年はともかく、経済大国となって久しい今も同じとあれば、「米国に洗脳された」としか言いようがない。東京大空襲を指揮したルメイ将軍に勲一等旭日大綬章を贈った(64年、佐藤内閣)などが象徴的だ。
 ただ、矢部宏治「日本はなぜ、『基地』と『原発』を止められないのか」(14年、集英社インターナショナル)によれば、実際はさらに複雑怪奇で根の深いものらしい。平和憲法の裏側で、日米両政府が占領統治をそのまま継続する内容の密約を結び続け、それを守ることが外務・法務官僚にとって至上命令になってしまったという。司法界を牛耳る「統治行為論」(高度の政治性を持つ事柄について判断を控える)も、根っこは同じところにある。
 これが定着した59年の砂川事件・最高裁判決の前に、田中耕太郎・最高裁長官が当時の駐日大使と懇談、米国の国益に沿った結論を伝えていたことが、08年以降の米国公文書調査で明らかになった。このこと自体、憲法に真っ向から背く行為だったと言える。
 沖縄・辺野古基地の県外移設を打ち出した鳩山首相が10年に失脚した背景には、防衛省や外務省の局長が直接、米国首脳部に移設反対を訴えたことがある。官僚が言うことを聞かなければ政治はできず、沖縄のその後が示すように「日本はまだ占領されたまま」だ。ビキニ事件も国賠訴訟もその一つだとすれば、今後の闘いも楽観は許されない。

 世界の4割を占める米国の軍事費の中身が気になっていた先月7日、近くの図書館でカルディコット「狂気の核武装大国アメリカ」(岡野内正ほか訳、08年・集英社新書)を見つけた。小児科医だった著者は、70年代から南太平洋でのフランスの核実験が食物連鎖を通して現地の子どもたちにもたらす被害を訴え、米国やオーストラリアの反核運動を牽引してきた。
 原著は共和党・小ブッシュ政権時代の02年に書かれたが、軍需企業が歴代政権の最大のスポンサーであり、周辺に軍人と科学者、メディアが群がる構造は今も変わらない。科学者は核開発を「楽しみ」、陸海空3軍は互いの威信をかけて予算獲得競争に血道を上げた。ヘリテージ財団などのシンクタンクもそろって核武装を唱え、巨万の富を手にした。第2章「核戦争になると?」で描かれた地球の地獄図も、迫真のリアリティーを持つ。
 
 米国であれ旧ソ連であれ、核開発は自国の兵士や労働者の被曝も織り込み済みだ。兵士が人体実験に使われたことさえある。豊崎さんの「写真と証言で伝える世界のヒバクシャ②アメリカ被ばく兵士と被ばく住民」(20年、すいれん舎)は、42年に原爆製造計画が始まって以来、南太平洋やネバダ核実験場、コロラド高原のウラン採掘場などで少なくとも数十万人が被曝したとする。
 「ブラボー」を含む核実験の「死の灰」は米国本土にも降り注いだ。遺伝子への影響を懸念する学者の声を、国防総省は「証拠がない」と一蹴した。それでも97年以降は政府機関による調査も行われ、一部の被災者には補償金も支払われた。もちろん、当事者による運動の高まりが背景にある。

 「ビキニデーin高知」の実行委は、すでに来年以降の事業計画の検討を始めた。県中部の須崎市では、6月12日から甫木元監督の個展「その次の季節」(7月4日まで、すさきまちかどギャラリー)が開かれ、改めてビキニ事件に焦点を当てる。26日には山下さんを招いてのミニ講演会もある。
 幡多ゼミの活動は、昨年からコロナで休眠状態が続いている。中核だった県立中村高校3年生が春に卒業し、今は数人。それでも昨年9月にはビキニ被災者調査を再開、10月には「第七千代丸」乗組員だった佐治幸三さん(88)ら2人からの聞き取りの後、内外ノ浦の高台にある藤井節弥さんの墓にお参りした。彼の死にまつわる謎は、まだ完全には解けていないという。
 佐治さんは同センターの調査には何度か応じてきたものの、幡多ゼミは初めて。顧問として同行した上岡さん(71)は「体調が悪く30分の約束だったが、話し始めると1時間を越え、私も聞いたことのないエピソードがいくつも出てきた。若い世代に語り継がねば、という使命感が力になったのでしょう」と話す。
 ゼミОBの何人かに電話して、近況を尋ねた。映画「ビキニの海は忘れない」に出演した平野(旧姓・安岡)三智(みち)さん(49)は長く「四万十楽舎」の事務局長を務め、今は近くの「道の駅」で鮮魚店を切り盛りする。高校2年で韓国を訪れた村井真菜さん(34)は19年に四万十町議となり、地元で民間企業が計画している巨大風力発電施設への反対や音楽活動に取り組む。「幡多ゼミで学んだことは私の原点です」の一言に、強い自負がうかがえた。

 (取材では文中で紹介したものを含め、多くの資料を参考にした。とくにローカル通信舎の雑誌「蒼」5号(87年)=現在は廃刊=は、山下さん・西村さんの報告と自社取材班のそれを合わせて掲載、貴重な証言となっている)
2021/03/28
福島原発事故から10年(上)    ―高知から(6)―
<この記事は2部に渡っています。読みやすいように掲載時系列ではなく、上から(上・下)と並んでいます>

石塚直人(元読売新聞記者)

 東日本大震災と福島原発事故から10年の節目を迎えた3月、高知でも犠牲者を悼み、防災・減災を誓う催しが相次いだ。とくに原発事故は地震や津波と違って文字通りの「人災」であり、福島原発から出る放射線は今も周辺を汚染し続けている。「原発をなくし、自然エネルギーを推進する高知県民連絡会」などが呼びかけた2つの集会には、東日本各地から避難してきた女性らも参加、それぞれの思いを語った。

横断幕やプラカードを手に「原発ゼロ」を訴える人たち(6日、高知市内で)
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 6日に高知城傍の高知市藤並公園で開かれた県民集会「3・11を忘れない アクション2021」には、約100人が集まった。隣の愛媛県にある伊方原発を皮肉った替え歌「瀬戸の原発」などの合唱に続いて全員が黙祷、主催者が「原発事故が収束していないのに再稼働は許せない」などとあいさつ。避難家族と支援者でつくる「虹色くじら」の代表、佐藤恵さん(49)が会の概要を説明し、会員3人が発言した。
 東京から男児2人を連れて2011年秋に引っ越し、半年後に夫が合流、高知で生まれた長女が今は小学生という女性は「汚染地域の住民を避難させなかった政府に怒りを覚えます。被災者の苦しみは今も終わっていません」。別の女性は、放射能汚染がとめどなく広がった10年を「ずっと怯えたままでした」と振り返り、志を同じくする人たちと一緒に歩む決意を述べた。
 福島原発事故の1か月後に結成され、反原発運動を続けてきた「グリーン市民ネットワーク高知」の共同代表で、元宮崎県立看護大学教員の外京ゆりさん(71)は「国と東京電力が加害責任を投げ捨てる中、子どもには安全に守られる権利がある、と必死に頑張ってこられた」と彼女らをたたえた。
 参加者はこの後、「まもろう平和 なくそう原発」などのシュプレヒコールを上げながら、電車通りに沿ってはりまや橋交差点まで約1キロをデモ行進。交差点でも約30人が4か所に分かれ、通行人らに反原発をアピールした。

 「虹色くじら」は原発事故から約半年が過ぎた9月、外京さんがSNSで見つけた避難女性に連絡を取り、彼女らの希望を受けて高知市内で「疎開ママさん交流会」を開いたのが始まりだ。地元紙の催し欄で紹介され、東京・横浜・福島から同市とその周辺に来た5人の母親が子どもを連れて参加した。
 2回目からは趣旨に賛同した牧師の計らいで教会が使われ、月に1、2回ずつ開かれた。子どもたちが近くの公園で遊ぶ間、「グリーン」会員が母親の話し相手となり、クリスマス会や学習会も実施。翌年からは反原発の講演会を企画し、学校給食の安全確保策について高知市教委と交渉するなど、活動の輪を広げた。
 しかし、母親の大半は夫を旧住所に残したままで、経済負担や孤立のつらさから、元の家に戻ったり連絡を絶ったりする人も増えた。支援者の牧師も数年前に転勤した。もともと避難者を束ねる組織があった訳でもなく、今では春の「3・11」集会と秋の平和イベントでの出店を除いて日常活動は休止。約10人が個人的に連絡し合う程度だという。
 もっとも、彼女らはインターネットで日常的に外国の報道に接するなど情報収集能力に長け、決断力もある。何年か経つうちに地域で独り立ちし、結果として会から遠ざかった人の場合は、必ずしも本人にとってマイナスとは言えない。
 代表の佐藤さんは東京都の出身で、原発事故の1か月後に県北の土佐町へ。事故直後に旅行でここに滞在していたのが転機となった。その後移住者を支援するNPОで働き、個性的な人材を何人も迎え入れて過疎地の町づくりに貢献している。「原発事故と今のコロナ禍で、大都会から地方を目指す人は増えています。弱者が生きづらい、子どもが将来に希望を持ちにくい傾向が10年でさらに進みましたから」と話す。

113キロを走り終え、インタビューに答える中野さん(6日、県庁前交差点)
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 11日午後、高知県平和運動センター事務局長の中野勇人さん(58)は、高知市の県庁前交差点で報道陣の取材に応じていた。特技のマラソンを生かし、走った距離に合わせてカンパを募る「ピースラン」で3日間、計約113キロを走り終えたばかりだった。
 9日朝、同僚の運転する宣伝カーで県西部の四万十市まで移動し、午前11時に「まもろう平和・なくそう原発!」「政府の棄民政策を許さない」などと書いたゼッケンをつけてスタート。宣伝カーのアナウンスとともに道の駅などで演説もこなし、最終日は高知市在住の看護師小川里江さん(40)も約34キロを伴走、2人でゴールした。
 中野さんは北海道に生まれ、旧国鉄に勤めた。分割民営化で1990年に解雇され、国労争議団のリーダーとして仲間の支援に奔走。2003年からは徳島県に常駐、12年に高知市に転居した。05年には高知市から東京まで1047キロを走って解雇撤回を呼びかけ、17年には平和と反原発を訴えて四国霊場88か所を走破した。国会前での54日間連続フルマラソンなどの記録も持つ。
 「自分で走れば、沿道からの激励などで人としてのつながりを実感できる」と中野さん。福島を巡る報道に「明るくきれいな映像ばかりを流し、すぐ傍にある暗いものや被曝線量には触れない。本当の姿を知らせてほしい」と注文した。
 テレビ報道で「ピースラン」を知った小川さんは「自分と同じ気持ちの人がいるのがうれしくて」合流を申し出た。防災士の資格を持ち、地区の自主防災会や「女性防災プロジェクト」にもかかわっている。「原発のためにどれだけ多くの人が犠牲になったか。私たちも勉強しないと」。

夕闇の中「私たちは忘れない」の誓いが広がった(11日、高知市役所前)
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 あたりが暗くなり始めた午後6時20分過ぎ、高知市役所前広場に人が集まってきた。これも恒例の「3・11メモリアルキャンドルナイト」。正面に「私たちは忘れない」「3.11」と大書された2つの看板が並んだ。
 約50人の参加者には、ミニライトと1枚のチラシが配られた。チラシは愛媛県の「伊方から原発をなくす会」が作ったもの。伊方原発ゲート前でこの日朝行われた同会主催の抗議行動に参加した「グリーン」会員が持ち帰った。関西電力大飯原発の設置許可を取り消した昨年12月の大阪地裁判決を引用し、伊方原発の基準地振動も大飯と同じ計算式による650ガルなどと記している。
 黙祷の後、主催者が「住宅メーカーでさえ2000ガルの実証実験をする中でこのお粗末ぶり。地震列島に原発を作ったこと自体が間違っている」とあいさつし、約10人がマイクを握った。
 埼玉県から避難して9年目の岩内史子さん(53)は「200種以上の放射性物質が子どもの体にどう影響するのかわからず、じっとしていられなかった」。大学で物理を学んだという女性は「放射能を水で薄めて流しても(危険性は)変わらない。何年もたって重篤な障害が出たら、誰が責任を取るのか」。中年の男性は「公害企業は法で罰せられるはずなのに、加害者の国と東電が避難者支援を打ち切るなどもってのほか」と怒りをぶつけた。
(続く)

2021/03/28
福島原発事故から10年(下)    ―高知から(6)―
石塚直人(元読売新聞記者)

 記者としての私が初めて「原発」を意識したのは、高知支局で2年目を迎えていた1980年6月。県西部の窪川町(現四万十町)で当時の藤戸進町長が「原発誘致もあり得る」と表明、以来8年に及ぶ推進派、反対派の対立の火ぶたが切られた。
 四国電力は70年代前半、伊方に続く原発の候補地を同町隣の佐賀町(現黒潮町)と決めたものの、漁協などの反対で断念していた。藤戸町長は81年にリコールで失職した後、出直し町長選で返り咲く。83年には町議選で反対派が急伸、翌年は藤戸氏が3選された。しかし86年のチェルノブイリ原発事故後は反原発の世論が高まり、藤戸氏は辞任、計画は幻に終わった。
 ふだんの取材は地元の先輩記者任せでも、リコール投票や選挙は3、4人態勢で、私も数回現地入りした。四国電力が70年代から町民を伊方原発への視察バス旅行に招待し、タダ酒を飲ませていたと知った時は、利権のため手段を選ばない独占企業に怒りを覚えた。「政治のことは男の人に任せちょったけど、危険なものを作らせる訳にはいかん」と反対運動に立ち上がった農家の女性たちには、これぞ民主主義のお手本、という気がした。

 10年前は、大阪本社の配信部に在籍していた。他本社との窓口役であり、福島支局を統括する東京地方部や東京・西部社会部、大阪に対応する部がない政治部、国際部などの記事はここを経由して紙面化される。
 原発事故からしばらく過ぎた頃、人体への影響をなるべく小さく見せるような報道姿勢が気になった。内外の識者は住民の避難と徹底した被曝調査を求めているのに、東京から送信される原発関連記事は政府や東京電力の発表とこれに沿った解説が大半を占め、原発に批判的な研究者の発言が載ることは少ない。
 ある日、他部のデスクも交えた数人が雑談する場で「読売の記事は被曝の危険性をきちんと伝えていないのでは」と疑問を口にした。誰かが「今は読者を不安がらせないことが大事なんや」と返し、何となくその場はおさまった。
 でもよく考えると、これはとんでもない言い分である。誰かの都合に関係なく事実をきちんと知らせること、とくに権力行使の内実を批判的に検証することが、記者にとって最大の仕事だからだ。社会の秩序を守ることが優先されるなら、新聞は限りなく政府広報に近づく。その結果があの戦争だった。

 事故を受け、5月に菅直人首相が「脱原発」を表明した。これに先立ち、原子力学会の元会長ら16人が過去の過ちを謝罪したが、菅氏は政財官界の集中砲火を浴びて退陣。原発再稼働論者の野田財務相が後を継ぎ、翌12年末の第2次安倍内閣へと続く。
 この間、新聞では朝日、毎日、東京などが脱原発を鮮明にした。読売は静観模様から再び原発推進論に舵を切り、8月には「脱原発を唱えるだけでは日本は沈没する」と断じた。当時、読売の発行部数は約995万部。やはり推進論の産経約160万部を加えると、朝日・毎日を合わせた約1113万部を上回った。
 翌12年2月には渡邊恒雄主筆が新潮新書「反ポピュリズム論」を出し、大阪本社でも一定数が記者に配られた。朝日の連載「プロメテウスの罠」が紹介した東京の主婦の談話「事故後に6歳の男児の鼻血が止まらず、放射能が原因らしいと聞いて落ち着いた」を「国民の不安を搔き立てるだけの報道」と切り捨てている。
 その根拠たるや「人間ドックでCTスキャンを受けても被曝する」など、とても科学の名には値しないレベルだ。広島・長崎で、米国や旧ソ連の元核実験場周辺で、どれだけ多くの人が被曝の後遺症に苦しんでいるか。せめてそのくらいは知っておくべきだろう。

 12年秋、大阪府高槻市の知人から「関西電力が3・11後に停止していた大飯原発(福井県)への見学旅行を再開させ、うちの自治会の老人会を第1号として無料招待する。何とかならないか」と相談を受けた。自治会長に抗議したが、効果がないという。
 市役所で記者会見すること、地元営業所に中止を求めることを勧め、一緒に趣意書を作った。彼が出向くと、担当者は「会長さんの要望があった」と述べ、バス代などを事故対策に回すべきとの提案には「後で回答する」。数日後、営業所から中止が知らされた。
 兵庫県西宮市にいた私は、この年3月に結成された「原発をなくす西宮の会」に加わり、16年春に高知に引っ越すまで、定期的に駅前広場での訴えに参加してきた。

 3度目の高知勤務で思い出すのは19年3月。福島からの避難者を追ったドキュメンタリー映画「ふたつの故郷を生きる」が9日に高知市で上映されると聞き、主催者から「虹色くじら」を知らされた。しかし、避難者の名前や連絡先は回答を拒まれた。
 上映会で会った数人の同会会員、この年の「キャンドルナイト」で発言した別の避難者への取材依頼も、1人を除いて空振りに終わった。「県内にも避難者がいる」とデスクに打診すると「福島ならともかく、東京でも放射能汚染が進んでいるなどの非科学的な主張をされるのは・・・」。諦めざるを得なかった。

 国と福島県はここ数年、東京五輪を視野に「福島の復興」をアピールする一方、原発周辺住民への避難指示を解除し、避難者への支援を打ち切った。17年5月には、同県郡山市から東京に母子で自主避難していた女性が2人の子どもを大学に進ませた後、自ら死を選んだ。
 自身も2児の母である棚沢明子さんの「福島のお母さん、いま、希望は見えますか?」(19年、彩流社)は、県内で原発事故に直面した9人の女性の肉声を丁寧にすくい取った力作だ。避難した人、しなかった人。住宅無償提供打ち切りの後、立ち退きを拒否して闘う人。国連人権理事会でスピーチした人も2人いる。がん検診と太陽光発電の専門家2人のインタビューも参考になる。

 福島県内からの避難者でさえ切り捨てられる今、東京など近隣都県からの避難者を取り巻く環境はさらに厳しい。関東・東北の広い範囲で土壌や水道水の放射能汚染が進んでいるにもかかわらず、多くは「勝手な思い込み」とみなされ、大手メディアが取り上げることもほとんどない。
 しかし、実際にがんや白血病の若年患者、さらに体調の悪化を訴えて関西以西に引っ越す人は増えている。自身も突然の心臓病で16年末に東京から大阪に移住した園良太さん(39)は関西在住の避難者らと17年3月、支援団体「3・11東北・関東 放射能汚染からの避難者と仲間たち(ゴーウェスト)」を旗揚げした。
 孤立しがちな避難者が互いにつながること、避難希望者に仕事や住宅を紹介すること、国や東電に事故の責任を取らせることを目指し、電話相談や下見・入居時の交通費支給(1回1万円、3回まで)、東日本在住者の健康データの収集などに取り組む。ホームページも充実しており、すでに3世帯の移住(京都、三重、兵庫)を実現させた。
 園さんは「国が汚染情報を隠し、メディアがそれに追随することで、東北・関東の5000万人が被曝の危険性に無自覚なまま暮らしている。支援団体も目前の仕事に追われ、自分が知る限りでは避難希望者への支援例はない」と話す。

 21年前に福島第一原発の技術者を退職した木村俊雄さん(56)が新著「原発亡国論」(駒草出版)を出したと知り、取り寄せて読んだ。事故から間もなく高知県西部の土佐清水市に引っ越し、今も住んでいるという。
 木村さんは在職中、何度も原発の危険性(特に津波に対する安全機能の弱さ)を周囲に訴え、「その通りだが、ここではその話はタブーだ」などとあしらわれてきた。著書では、トラブル隠しが常態化した電力会社の内実を告発する一方、ピント外れも多い野党の不甲斐なさにも触れ、「それでも反原発を」と多彩な処方箋を列挙した。
 とくに「脱炭素社会」を口実とした原発再稼働論に対し「安易に再生可能エネルギーを持ち出しても効果がない」の指摘は示唆に富む。太陽光や風力ではまだ火力に追いつけないからだ。でも電気の性質上、照明や電動機と違って調理・暖房用の家電製品はエネルギー効率が極めて低い。皆が電気ポットをやめるだけで原発3基分の電力が浮くという。
 電話で尋ねると、土佐清水市は趣味のサーフィンで何度か訪れ、人情と自然の美しさに惹かれたらしい。もちろん放射能からの避難が最大要因で、オール自家発電の生活を貫く。「原発がなくても十分暮らせる」を自ら実証するためだ。

 福島原発事故から11年目に入り、政府の原発再稼働論に待ったをかけるニュースが続いている。水戸地裁は、日本原電東海第2原発(茨城県)の避難計画に不備があるとして運転の差し止めを命じた(18日)。原子力規制委員会は、東電柏崎刈羽原発(新潟県)のテロ対策の不備を理由に、是正措置命令を出す方針を決めた(24日)。
 規制委の更田委員長は「東電には燃料を移動させる資格がない」とまで言い切った。東電が原発を動かすだけの当事者能力を欠いている、と規制委が断定したことの意味は重い。無数の避難者の訴えにもかかわらず、事故後も原発の「安全神話」を垂れ流してきた一部メディアの罪も、と考えるべきだろう。
 世界有数の地震国でありながら「自然エネルギーと比べどちらが安価で効率的か」などと経済性だけで原発の当否を論じてきたこと自体、この国で多数派の政治家や言論人のいい加減さを示すものだ。原発は何より「倫理」の問題である。国内で放射性廃棄物を何万年も保管するのは不可能であり、自分が楽をするため無数の子孫の命を危険にさらす権利など、誰にもない。
 小泉元首相は退任後、北欧の原発廃棄物保管施設を見学してその巨大さに驚き、脱原発に転じた。彼は「経済産業省の役人に騙されていた」と述べたが、私たちもこれ以上騙されてはなるまい。
 関電に抗議して大飯原発へのバス旅行を中止させた大阪の知人(76)に、久しぶりの電話をかけた。彼ら少数派はその後長い間、自治会長らの冷たい視線にさらされた。街頭デモとは違い、たびたび顔を合わせる相手とあって、かなりこたえたという。「でも、声を上げたからこそ止められた。そのことは今でも誇りに思っています」。最後は力がこもっていた。

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