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2021/05/14
ビキニ被災を追って(下) ―高知から(7)―
<石塚直人(元読売新聞記者)>
「ビキニデーin高知」は、同センターなど20団体による実行委が主催。3月5日から14日まで高知市立自由民権記念館で核被災写真展が開かれたほか、6日は室戸、幡多の2コースに分かれて元マグロ漁船員や遺族と語り合うフィールドワーク、7日は全体集会が行われた。13日は高知市、2月28日は室戸市で、ビキニ被災にまつわる2本の映画が上映された。日本原水協など平和団体が支援、3・1ビキニデー焼津集会からもメッセージが届いた。
全体集会は、オンラインを含む約250人が参加した。幡多ゼミОBらによる活動紹介に続き、2年前から県内で取り組まれている紙芝居「ビキニの海のねがい」が披露された。山下さんは基調報告で、日米両政府による政治決着に伴い第五福竜丸以外の被災が隠蔽されてきた経過を詳述。日本政府に核兵器禁止条約の批准を求め、世界の核被災者によるネットワークづくりを呼びかけた。
パネル討議では、同センター共同代表の濱田郁夫さん(元教員)が室戸での調査について「昨年は70軒を訪問した」と報告、汚染された海に5回も出漁するなど漁船員の苛酷な労働実態を説明した。ビキニ労災訴訟原告団長の下本節子さん(遺族)は「加害者の米国が都合よくまとめたデータだけを使い、被災船員からの聞き取りもせずに不支給を決めた」と国や協会の不誠実を非難した。
同訴訟弁護団の大野鉄平弁護士は、日弁連が昨年夏にまとめた「元漁船員らの健康被害に対する救済措置を求める意見書」を引いて補償や健康相談を要求。国の情報不開示が国際人権規約に違反した可能性を指摘し、国連など海外を見据えた情報発信に取り組みたいとした。
入社6年目の毎日新聞記者松原由佳さん(現東京学芸部)は、高校時代に講演を聞き19年に取材で再訪した元第五福竜丸乗組員の大石又七さん(3月7日に87歳で死去)、国賠訴訟の原告団長で昨年12月に83歳で亡くなった増本和馬さんらの思い出を語り、「ビキニを伝えるため何ができるか、これからも考え続けたい」と結んだ。
続く記念講演では、自身も被爆二世の内藤雅義弁護士(東京)が昨年7月の広島地裁「黒い雨訴訟」判決に触れ、残留・内部被曝を軽視する国の姿勢を批判。個別の調査を積み上げて内部被曝の全体像を明らかにする意義を強調した。
核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)国際運営委員の川崎哲さんは、核兵器禁止条約が発効するまでの各国と国際世論の取り組みを紹介した。さらに「当初は効果が危ぶまれたクラスター爆弾禁止条約(08年)も、各国の銀行が製造会社との取引を停止することで生産が激減した」と述べ、確かな展望に基づく国際的な世論づくりを訴えた。
写真展は岡村さんの写真のほか、世界の核実験被災者の取材で知られる写真家森住卓さん、豊崎博光さんの作品計数十点を借り出し、広島・長崎(原爆投下)からビキニを含むマーシャル諸島・旧ソ連セミパラチンスク(核実験)、福島原発事故に至る「核の恐ろしさ」を表現した。
同じ会場では、第五福竜丸展示館所蔵の「死の灰」のレプリカ、ガイガーカウンター(放射能測定器)、久保山愛吉さんの遺児に宛てて高知の子どもたちが送った手紙なども公開された。最終日には「この手紙は確かに自分が書いた」と75歳の男性が名乗り出た。
フィールドワークには合わせて80人が参加し、元漁船員からは「中学を卒業した翌日には船に乗った」「マグロ漁は長さ数十キロの延縄を8~12時間かけて巻き上げる重労働」「マグロを捨てるのはつらかった」などの体験が語られた。参加者からは「ビキニ事件は過去の話ではなく、今も現実にあるできごとだと実感した」などの声が出た。
映画会での上映作品は、新藤兼人監督「第五福竜丸」(59年)と甫木元空監督「その次の季節」(2020年)。「第五福竜丸」は出港から被曝、帰港、久保山さんの死、原水禁運動などを史実に沿って骨太に描き、「その次の」は県西部・四万十町在住の青年監督が元漁船員や遺族らの「今」のコメントをつないで構成した。コロナ禍の中、合わせて134人が訪れた。
私はフィールドワークを除く行事に足を運んだ。全体集会では、これまでのビキニ事件被災者の苦闘の歩みを改めて思い起こした。「第五福竜丸」では、マグロ漁の苛酷な実態や、患者の治療より被曝データの収集を優先する米国人医師の描写の見事さに感動した。晩年に取材で会った新藤監督の、若き日の執念がしのばれた。
様々の障害を持った子どもが預けられたセミパラチンスク市内の施設「子どもの家」 (1999年9月) | 水頭症の赤ちゃん。「子どもの家」で (1999年2月) | ホルマリン漬けの奇形胎児。セミパラチンスク医学アカデミーで (2008年11月) |
ここでは四国ほどの面積が核実験場に指定され、49年から89年までに467回の実験が行われた。旧ソ連時代は最重要の軍事機密とされ、カザフスタン独立後もロシアが資料を公開しないため、核被災の実態は不明な点が多い。森住さんは94年8月から08年まで計10回も現地に通い、撮影を続けてきた。
なじみの医師や村人たちとの交流を綴った文章からは、貧しくても健気に生きる庶民の姿が伝わる。先天性の奇形のため親に捨てられた子どもが暮らす施設では、園長に頼まれて水頭症の赤ちゃんの写真を撮った。それで世界に核被災を訴えてほしいという。しかし帰国して現地の写真を新聞社や出版社に持ち込むと、あちこちで断られた。「因果関係がはっきりしない写真は載せられない、というのだ」と本にある。
「ここでもか」と暗澹とした気分に襲われた。前回の連載で触れた読売新聞・渡邊恒雄主筆の著書だけではない。山下さんの「核の海の証言―ビキニ事件は終わらない」(12年、新日本出版社)は、79年に朝日新聞西部本社が取り組んだビキニ被災貨物船「弥彦丸」の追跡調査の顛末に触れている。
当時西部本社社会部デスクだった長谷川千秋さんによれば、長崎県在住の元乗組員が被曝による発病だと訴えたのが発端。取材班は乗組員44人のその後を調べ、「死者を含む半数以上に入院経験があり、皆が健康調査を望んでいる」との元日用特報記事を全本社に送った。しかし、大晦日に東京科学部長名で3人の科学者による否定的なコメントが全本社に流れ、紙面に載ったのは西部本社版だけだった。
とくに久保山愛吉さんの主治医として放射能障害を指摘しながら、後に国立放射線医学総合研究所長となり「学問的には断定できない」と前言を翻した熊取敏之氏(故人)の「こんな議論は日本の科学者の恥」という悪意に満ちた断言が響いた。彼の影響は今も残り、ビキニ訴訟や黒い雨訴訟で国の主張の根拠ともなっている。
科学的に被曝との因果関係が立証できるまで記事や写真はダメ、とされれば被災者の救済は遅れ、被害はさらに広がる。それはジャーナリズムの自己否定でしかない。「私にできることは、被曝者の姿、苦しみ、悲しみを映像で伝えること」(森住さん)、「25年間放置され、不安の中にいる人たちの目で判断してほしかった」(長谷川さん)の指摘に共感する。
それにしても、世界で唯一原爆を投下された国の政府がなぜここまで頑なに加害国の論理にしがみつき、自国の被災者を蔑ろにし、核兵器禁止条約の批准を拒み続けるのか。
敗戦からようやく立ち直った54年はともかく、経済大国となって久しい今も同じとあれば、「米国に洗脳された」としか言いようがない。東京大空襲を指揮したルメイ将軍に勲一等旭日大綬章を贈った(64年、佐藤内閣)などが象徴的だ。
ただ、矢部宏治「日本はなぜ、『基地』と『原発』を止められないのか」(14年、集英社インターナショナル)によれば、実際はさらに複雑怪奇で根の深いものらしい。平和憲法の裏側で、日米両政府が占領統治をそのまま継続する内容の密約を結び続け、それを守ることが外務・法務官僚にとって至上命令になってしまったという。司法界を牛耳る「統治行為論」(高度の政治性を持つ事柄について判断を控える)も、根っこは同じところにある。
これが定着した59年の砂川事件・最高裁判決の前に、田中耕太郎・最高裁長官が当時の駐日大使と懇談、米国の国益に沿った結論を伝えていたことが、08年以降の米国公文書調査で明らかになった。このこと自体、憲法に真っ向から背く行為だったと言える。
沖縄・辺野古基地の県外移設を打ち出した鳩山首相が10年に失脚した背景には、防衛省や外務省の局長が直接、米国首脳部に移設反対を訴えたことがある。官僚が言うことを聞かなければ政治はできず、沖縄のその後が示すように「日本はまだ占領されたまま」だ。ビキニ事件も国賠訴訟もその一つだとすれば、今後の闘いも楽観は許されない。
世界の4割を占める米国の軍事費の中身が気になっていた先月7日、近くの図書館でカルディコット「狂気の核武装大国アメリカ」(岡野内正ほか訳、08年・集英社新書)を見つけた。小児科医だった著者は、70年代から南太平洋でのフランスの核実験が食物連鎖を通して現地の子どもたちにもたらす被害を訴え、米国やオーストラリアの反核運動を牽引してきた。
原著は共和党・小ブッシュ政権時代の02年に書かれたが、軍需企業が歴代政権の最大のスポンサーであり、周辺に軍人と科学者、メディアが群がる構造は今も変わらない。科学者は核開発を「楽しみ」、陸海空3軍は互いの威信をかけて予算獲得競争に血道を上げた。ヘリテージ財団などのシンクタンクもそろって核武装を唱え、巨万の富を手にした。第2章「核戦争になると?」で描かれた地球の地獄図も、迫真のリアリティーを持つ。
米国であれ旧ソ連であれ、核開発は自国の兵士や労働者の被曝も織り込み済みだ。兵士が人体実験に使われたことさえある。豊崎さんの「写真と証言で伝える世界のヒバクシャ②アメリカ被ばく兵士と被ばく住民」(20年、すいれん舎)は、42年に原爆製造計画が始まって以来、南太平洋やネバダ核実験場、コロラド高原のウラン採掘場などで少なくとも数十万人が被曝したとする。
「ブラボー」を含む核実験の「死の灰」は米国本土にも降り注いだ。遺伝子への影響を懸念する学者の声を、国防総省は「証拠がない」と一蹴した。それでも97年以降は政府機関による調査も行われ、一部の被災者には補償金も支払われた。もちろん、当事者による運動の高まりが背景にある。
「ビキニデーin高知」の実行委は、すでに来年以降の事業計画の検討を始めた。県中部の須崎市では、6月12日から甫木元監督の個展「その次の季節」(7月4日まで、すさきまちかどギャラリー)が開かれ、改めてビキニ事件に焦点を当てる。26日には山下さんを招いてのミニ講演会もある。
幡多ゼミの活動は、昨年からコロナで休眠状態が続いている。中核だった県立中村高校3年生が春に卒業し、今は数人。それでも昨年9月にはビキニ被災者調査を再開、10月には「第七千代丸」乗組員だった佐治幸三さん(88)ら2人からの聞き取りの後、内外ノ浦の高台にある藤井節弥さんの墓にお参りした。彼の死にまつわる謎は、まだ完全には解けていないという。
佐治さんは同センターの調査には何度か応じてきたものの、幡多ゼミは初めて。顧問として同行した上岡さん(71)は「体調が悪く30分の約束だったが、話し始めると1時間を越え、私も聞いたことのないエピソードがいくつも出てきた。若い世代に語り継がねば、という使命感が力になったのでしょう」と話す。
ゼミОBの何人かに電話して、近況を尋ねた。映画「ビキニの海は忘れない」に出演した平野(旧姓・安岡)三智(みち)さん(49)は長く「四万十楽舎」の事務局長を務め、今は近くの「道の駅」で鮮魚店を切り盛りする。高校2年で韓国を訪れた村井真菜さん(34)は19年に四万十町議となり、地元で民間企業が計画している巨大風力発電施設への反対や音楽活動に取り組む。「幡多ゼミで学んだことは私の原点です」の一言に、強い自負がうかがえた。
(取材では文中で紹介したものを含め、多くの資料を参考にした。とくにローカル通信舎の雑誌「蒼」5号(87年)=現在は廃刊=は、山下さん・西村さんの報告と自社取材班のそれを合わせて掲載、貴重な証言となっている)
2021/03/28
福島原発事故から10年(上) ―高知から(6)―
<この記事は2部に渡っています。読みやすいように掲載時系列ではなく、上から(上・下)と並んでいます>
<石塚直人(元読売新聞記者)>
東日本大震災と福島原発事故から10年の節目を迎えた3月、高知でも犠牲者を悼み、防災・減災を誓う催しが相次いだ。とくに原発事故は地震や津波と違って文字通りの「人災」であり、福島原発から出る放射線は今も周辺を汚染し続けている。「原発をなくし、自然エネルギーを推進する高知県民連絡会」などが呼びかけた2つの集会には、東日本各地から避難してきた女性らも参加、それぞれの思いを語った。
東京から男児2人を連れて2011年秋に引っ越し、半年後に夫が合流、高知で生まれた長女が今は小学生という女性は「汚染地域の住民を避難させなかった政府に怒りを覚えます。被災者の苦しみは今も終わっていません」。別の女性は、放射能汚染がとめどなく広がった10年を「ずっと怯えたままでした」と振り返り、志を同じくする人たちと一緒に歩む決意を述べた。
福島原発事故の1か月後に結成され、反原発運動を続けてきた「グリーン市民ネットワーク高知」の共同代表で、元宮崎県立看護大学教員の外京ゆりさん(71)は「国と東京電力が加害責任を投げ捨てる中、子どもには安全に守られる権利がある、と必死に頑張ってこられた」と彼女らをたたえた。
参加者はこの後、「まもろう平和 なくそう原発」などのシュプレヒコールを上げながら、電車通りに沿ってはりまや橋交差点まで約1キロをデモ行進。交差点でも約30人が4か所に分かれ、通行人らに反原発をアピールした。
「虹色くじら」は原発事故から約半年が過ぎた9月、外京さんがSNSで見つけた避難女性に連絡を取り、彼女らの希望を受けて高知市内で「疎開ママさん交流会」を開いたのが始まりだ。地元紙の催し欄で紹介され、東京・横浜・福島から同市とその周辺に来た5人の母親が子どもを連れて参加した。
2回目からは趣旨に賛同した牧師の計らいで教会が使われ、月に1、2回ずつ開かれた。子どもたちが近くの公園で遊ぶ間、「グリーン」会員が母親の話し相手となり、クリスマス会や学習会も実施。翌年からは反原発の講演会を企画し、学校給食の安全確保策について高知市教委と交渉するなど、活動の輪を広げた。
しかし、母親の大半は夫を旧住所に残したままで、経済負担や孤立のつらさから、元の家に戻ったり連絡を絶ったりする人も増えた。支援者の牧師も数年前に転勤した。もともと避難者を束ねる組織があった訳でもなく、今では春の「3・11」集会と秋の平和イベントでの出店を除いて日常活動は休止。約10人が個人的に連絡し合う程度だという。
もっとも、彼女らはインターネットで日常的に外国の報道に接するなど情報収集能力に長け、決断力もある。何年か経つうちに地域で独り立ちし、結果として会から遠ざかった人の場合は、必ずしも本人にとってマイナスとは言えない。
代表の佐藤さんは東京都の出身で、原発事故の1か月後に県北の土佐町へ。事故直後に旅行でここに滞在していたのが転機となった。その後移住者を支援するNPОで働き、個性的な人材を何人も迎え入れて過疎地の町づくりに貢献している。「原発事故と今のコロナ禍で、大都会から地方を目指す人は増えています。弱者が生きづらい、子どもが将来に希望を持ちにくい傾向が10年でさらに進みましたから」と話す。
9日朝、同僚の運転する宣伝カーで県西部の四万十市まで移動し、午前11時に「まもろう平和・なくそう原発!」「政府の棄民政策を許さない」などと書いたゼッケンをつけてスタート。宣伝カーのアナウンスとともに道の駅などで演説もこなし、最終日は高知市在住の看護師小川里江さん(40)も約34キロを伴走、2人でゴールした。
中野さんは北海道に生まれ、旧国鉄に勤めた。分割民営化で1990年に解雇され、国労争議団のリーダーとして仲間の支援に奔走。2003年からは徳島県に常駐、12年に高知市に転居した。05年には高知市から東京まで1047キロを走って解雇撤回を呼びかけ、17年には平和と反原発を訴えて四国霊場88か所を走破した。国会前での54日間連続フルマラソンなどの記録も持つ。
「自分で走れば、沿道からの激励などで人としてのつながりを実感できる」と中野さん。福島を巡る報道に「明るくきれいな映像ばかりを流し、すぐ傍にある暗いものや被曝線量には触れない。本当の姿を知らせてほしい」と注文した。
テレビ報道で「ピースラン」を知った小川さんは「自分と同じ気持ちの人がいるのがうれしくて」合流を申し出た。防災士の資格を持ち、地区の自主防災会や「女性防災プロジェクト」にもかかわっている。「原発のためにどれだけ多くの人が犠牲になったか。私たちも勉強しないと」。
約50人の参加者には、ミニライトと1枚のチラシが配られた。チラシは愛媛県の「伊方から原発をなくす会」が作ったもの。伊方原発ゲート前でこの日朝行われた同会主催の抗議行動に参加した「グリーン」会員が持ち帰った。関西電力大飯原発の設置許可を取り消した昨年12月の大阪地裁判決を引用し、伊方原発の基準地振動も大飯と同じ計算式による650ガルなどと記している。
黙祷の後、主催者が「住宅メーカーでさえ2000ガルの実証実験をする中でこのお粗末ぶり。地震列島に原発を作ったこと自体が間違っている」とあいさつし、約10人がマイクを握った。
埼玉県から避難して9年目の岩内史子さん(53)は「200種以上の放射性物質が子どもの体にどう影響するのかわからず、じっとしていられなかった」。大学で物理を学んだという女性は「放射能を水で薄めて流しても(危険性は)変わらない。何年もたって重篤な障害が出たら、誰が責任を取るのか」。中年の男性は「公害企業は法で罰せられるはずなのに、加害者の国と東電が避難者支援を打ち切るなどもってのほか」と怒りをぶつけた。
(続く)
2021/03/28
福島原発事故から10年(下) ―高知から(6)―
<石塚直人(元読売新聞記者)>
記者としての私が初めて「原発」を意識したのは、高知支局で2年目を迎えていた1980年6月。県西部の窪川町(現四万十町)で当時の藤戸進町長が「原発誘致もあり得る」と表明、以来8年に及ぶ推進派、反対派の対立の火ぶたが切られた。
四国電力は70年代前半、伊方に続く原発の候補地を同町隣の佐賀町(現黒潮町)と決めたものの、漁協などの反対で断念していた。藤戸町長は81年にリコールで失職した後、出直し町長選で返り咲く。83年には町議選で反対派が急伸、翌年は藤戸氏が3選された。しかし86年のチェルノブイリ原発事故後は反原発の世論が高まり、藤戸氏は辞任、計画は幻に終わった。
ふだんの取材は地元の先輩記者任せでも、リコール投票や選挙は3、4人態勢で、私も数回現地入りした。四国電力が70年代から町民を伊方原発への視察バス旅行に招待し、タダ酒を飲ませていたと知った時は、利権のため手段を選ばない独占企業に怒りを覚えた。「政治のことは男の人に任せちょったけど、危険なものを作らせる訳にはいかん」と反対運動に立ち上がった農家の女性たちには、これぞ民主主義のお手本、という気がした。
10年前は、大阪本社の配信部に在籍していた。他本社との窓口役であり、福島支局を統括する東京地方部や東京・西部社会部、大阪に対応する部がない政治部、国際部などの記事はここを経由して紙面化される。
原発事故からしばらく過ぎた頃、人体への影響をなるべく小さく見せるような報道姿勢が気になった。内外の識者は住民の避難と徹底した被曝調査を求めているのに、東京から送信される原発関連記事は政府や東京電力の発表とこれに沿った解説が大半を占め、原発に批判的な研究者の発言が載ることは少ない。
ある日、他部のデスクも交えた数人が雑談する場で「読売の記事は被曝の危険性をきちんと伝えていないのでは」と疑問を口にした。誰かが「今は読者を不安がらせないことが大事なんや」と返し、何となくその場はおさまった。
でもよく考えると、これはとんでもない言い分である。誰かの都合に関係なく事実をきちんと知らせること、とくに権力行使の内実を批判的に検証することが、記者にとって最大の仕事だからだ。社会の秩序を守ることが優先されるなら、新聞は限りなく政府広報に近づく。その結果があの戦争だった。
事故を受け、5月に菅直人首相が「脱原発」を表明した。これに先立ち、原子力学会の元会長ら16人が過去の過ちを謝罪したが、菅氏は政財官界の集中砲火を浴びて退陣。原発再稼働論者の野田財務相が後を継ぎ、翌12年末の第2次安倍内閣へと続く。
この間、新聞では朝日、毎日、東京などが脱原発を鮮明にした。読売は静観模様から再び原発推進論に舵を切り、8月には「脱原発を唱えるだけでは日本は沈没する」と断じた。当時、読売の発行部数は約995万部。やはり推進論の産経約160万部を加えると、朝日・毎日を合わせた約1113万部を上回った。
翌12年2月には渡邊恒雄主筆が新潮新書「反ポピュリズム論」を出し、大阪本社でも一定数が記者に配られた。朝日の連載「プロメテウスの罠」が紹介した東京の主婦の談話「事故後に6歳の男児の鼻血が止まらず、放射能が原因らしいと聞いて落ち着いた」を「国民の不安を搔き立てるだけの報道」と切り捨てている。
その根拠たるや「人間ドックでCTスキャンを受けても被曝する」など、とても科学の名には値しないレベルだ。広島・長崎で、米国や旧ソ連の元核実験場周辺で、どれだけ多くの人が被曝の後遺症に苦しんでいるか。せめてそのくらいは知っておくべきだろう。
12年秋、大阪府高槻市の知人から「関西電力が3・11後に停止していた大飯原発(福井県)への見学旅行を再開させ、うちの自治会の老人会を第1号として無料招待する。何とかならないか」と相談を受けた。自治会長に抗議したが、効果がないという。
市役所で記者会見すること、地元営業所に中止を求めることを勧め、一緒に趣意書を作った。彼が出向くと、担当者は「会長さんの要望があった」と述べ、バス代などを事故対策に回すべきとの提案には「後で回答する」。数日後、営業所から中止が知らされた。
兵庫県西宮市にいた私は、この年3月に結成された「原発をなくす西宮の会」に加わり、16年春に高知に引っ越すまで、定期的に駅前広場での訴えに参加してきた。
3度目の高知勤務で思い出すのは19年3月。福島からの避難者を追ったドキュメンタリー映画「ふたつの故郷を生きる」が9日に高知市で上映されると聞き、主催者から「虹色くじら」を知らされた。しかし、避難者の名前や連絡先は回答を拒まれた。
上映会で会った数人の同会会員、この年の「キャンドルナイト」で発言した別の避難者への取材依頼も、1人を除いて空振りに終わった。「県内にも避難者がいる」とデスクに打診すると「福島ならともかく、東京でも放射能汚染が進んでいるなどの非科学的な主張をされるのは・・・」。諦めざるを得なかった。
国と福島県はここ数年、東京五輪を視野に「福島の復興」をアピールする一方、原発周辺住民への避難指示を解除し、避難者への支援を打ち切った。17年5月には、同県郡山市から東京に母子で自主避難していた女性が2人の子どもを大学に進ませた後、自ら死を選んだ。
自身も2児の母である棚沢明子さんの「福島のお母さん、いま、希望は見えますか?」(19年、彩流社)は、県内で原発事故に直面した9人の女性の肉声を丁寧にすくい取った力作だ。避難した人、しなかった人。住宅無償提供打ち切りの後、立ち退きを拒否して闘う人。国連人権理事会でスピーチした人も2人いる。がん検診と太陽光発電の専門家2人のインタビューも参考になる。
福島県内からの避難者でさえ切り捨てられる今、東京など近隣都県からの避難者を取り巻く環境はさらに厳しい。関東・東北の広い範囲で土壌や水道水の放射能汚染が進んでいるにもかかわらず、多くは「勝手な思い込み」とみなされ、大手メディアが取り上げることもほとんどない。
しかし、実際にがんや白血病の若年患者、さらに体調の悪化を訴えて関西以西に引っ越す人は増えている。自身も突然の心臓病で16年末に東京から大阪に移住した園良太さん(39)は関西在住の避難者らと17年3月、支援団体「3・11東北・関東 放射能汚染からの避難者と仲間たち(ゴーウェスト)」を旗揚げした。
孤立しがちな避難者が互いにつながること、避難希望者に仕事や住宅を紹介すること、国や東電に事故の責任を取らせることを目指し、電話相談や下見・入居時の交通費支給(1回1万円、3回まで)、東日本在住者の健康データの収集などに取り組む。ホームページも充実しており、すでに3世帯の移住(京都、三重、兵庫)を実現させた。
園さんは「国が汚染情報を隠し、メディアがそれに追随することで、東北・関東の5000万人が被曝の危険性に無自覚なまま暮らしている。支援団体も目前の仕事に追われ、自分が知る限りでは避難希望者への支援例はない」と話す。
21年前に福島第一原発の技術者を退職した木村俊雄さん(56)が新著「原発亡国論」(駒草出版)を出したと知り、取り寄せて読んだ。事故から間もなく高知県西部の土佐清水市に引っ越し、今も住んでいるという。
木村さんは在職中、何度も原発の危険性(特に津波に対する安全機能の弱さ)を周囲に訴え、「その通りだが、ここではその話はタブーだ」などとあしらわれてきた。著書では、トラブル隠しが常態化した電力会社の内実を告発する一方、ピント外れも多い野党の不甲斐なさにも触れ、「それでも反原発を」と多彩な処方箋を列挙した。
とくに「脱炭素社会」を口実とした原発再稼働論に対し「安易に再生可能エネルギーを持ち出しても効果がない」の指摘は示唆に富む。太陽光や風力ではまだ火力に追いつけないからだ。でも電気の性質上、照明や電動機と違って調理・暖房用の家電製品はエネルギー効率が極めて低い。皆が電気ポットをやめるだけで原発3基分の電力が浮くという。
電話で尋ねると、土佐清水市は趣味のサーフィンで何度か訪れ、人情と自然の美しさに惹かれたらしい。もちろん放射能からの避難が最大要因で、オール自家発電の生活を貫く。「原発がなくても十分暮らせる」を自ら実証するためだ。
福島原発事故から11年目に入り、政府の原発再稼働論に待ったをかけるニュースが続いている。水戸地裁は、日本原電東海第2原発(茨城県)の避難計画に不備があるとして運転の差し止めを命じた(18日)。原子力規制委員会は、東電柏崎刈羽原発(新潟県)のテロ対策の不備を理由に、是正措置命令を出す方針を決めた(24日)。
規制委の更田委員長は「東電には燃料を移動させる資格がない」とまで言い切った。東電が原発を動かすだけの当事者能力を欠いている、と規制委が断定したことの意味は重い。無数の避難者の訴えにもかかわらず、事故後も原発の「安全神話」を垂れ流してきた一部メディアの罪も、と考えるべきだろう。
世界有数の地震国でありながら「自然エネルギーと比べどちらが安価で効率的か」などと経済性だけで原発の当否を論じてきたこと自体、この国で多数派の政治家や言論人のいい加減さを示すものだ。原発は何より「倫理」の問題である。国内で放射性廃棄物を何万年も保管するのは不可能であり、自分が楽をするため無数の子孫の命を危険にさらす権利など、誰にもない。
小泉元首相は退任後、北欧の原発廃棄物保管施設を見学してその巨大さに驚き、脱原発に転じた。彼は「経済産業省の役人に騙されていた」と述べたが、私たちもこれ以上騙されてはなるまい。
関電に抗議して大飯原発へのバス旅行を中止させた大阪の知人(76)に、久しぶりの電話をかけた。彼ら少数派はその後長い間、自治会長らの冷たい視線にさらされた。街頭デモとは違い、たびたび顔を合わせる相手とあって、かなりこたえたという。「でも、声を上げたからこそ止められた。そのことは今でも誇りに思っています」。最後は力がこもっていた。
2021/01/29
「マルモイ」と朝鮮語学会事件(上) ―高知から(5)―
<この記事は2部に渡っています。読みやすいように掲載時系列ではなく、上から(上・下)と並んでいます>
<石塚直人(元読売新聞記者)>
映画「マルモイ ことばあつめ」オフィシャルサイト 様よりスチール写真の提供をいただきました。
朝鮮語学会は、前身の朝鮮語研究会時代の1929年から辞典の編纂作業に取り組み、31年の改称後は雑誌「ハングル」の刊行や綴字法統一案の制定などを進めていた。これらが治安維持法違反だとして、関係者29人が42年9月から翌年1月までに検挙され、苛酷な取り調べを経て45年1月、10人が懲役6~2年の実刑(うち5人は執行猶予4年)の判決を受けた。途中で2人が、拷問と寒さのため獄死している。
服役した学者の回想録によれば、42年7月に半島北部の咸鏡南道で朝鮮人青年が日本人刑事の尋問を受け、実家から姪に当たる女子高校生の日記が押収された。その中に「国語を常用する者を罰した」との記述があり、事情聴取の結果、学会員が彼女の学校で教え、反日的な言動をしていたのがわかったという。
総督府が国語(日本語)常用運動を進める中での事件だとして警察は彼を取り調べ、「朝鮮語学会は民族主義者の集団」と供述させて大量検挙に踏み切った。裁判所も、同学会の活動は民族独立運動であり「多年にわたり偏狭なる民族概念を培養した」と断定した。
しかし、37年の日中戦争勃発と前後して「皇民化」政策が本格化する。創氏改名や神社参拝の強制、国語常用運動などにより、朝鮮人に対し民族文化を捨てて日本人になりきるよう求めた。42年5月には、2年後に朝鮮で徴兵制を実施することが閣議決定され、天皇のため喜んで死ねる兵士を育てることが最重要課題となった。
当時の事情に詳しい熊谷明泰・関西大名誉教授(朝鮮語学)は「日記の実物も見つかっておらず、警察内部でも立件は無理との議論があったようだ。事件そのものが朝鮮語の抹殺を企てるための捏造」と話す。
辞典の編纂作業はこれで中断、原稿は押収されて行方不明だったが、解放後の45年9月8日にソウル駅停車場近くの倉庫から発見された。これをもとに学会有志が「朝鮮語大辞典」第1巻を刊行、後に「大辞典」となり56年の第6巻で完結した。第1巻の「編纂の経緯」は、発見時の喜びを「まさに天佑」と綴っている。
映画「マルモイ ことばあつめ」(原題はマルモイ、マルは朝鮮語で言葉、モイは集めること)は、韓国で2019年に公開され、300万人の観客を集めた。
監督は17年の大ヒット作「タクシー運転手 約束は海を越えて」の女性脚本家オム・ユナ。軍政時代、民主化を求める市民数百人が殺傷された光州までソウルからドイツ人記者を乗せて往復した運転手の実話に基づく前作同様、民族史に貢献した無名の市民の奮闘がテーマだ。主人公は、口八丁手八丁だが読み書きのできない架空の前科者キム・パンス。言葉が持つ偉大さを印象づけるには、格好の人物像と言える。
ジョンファンは反対したものの、次第に心を開き、彼にハングルを教え始めた。「金ならともかく、言葉を集めてどうする」といぶかしんでいたパンスもその意味を悟り、昔の同房者ら14人を集めて出身地ごとに方言を披露させるまでになった。
警察が雑誌「ハングル」の廃刊を命じると、二人は最終号に広告を出し、全国の読者に地元の方言を送るよう呼びかけた。仲間のひとりは「獄中の妻を解放する」と刑事に騙されて原稿の保管場所を明かし、作業場が急襲されて原稿は押収、チョ先生が連行された。
後日釈放された先生は拷問のため爪がすべてはがされ、瀕死の状態だった。号泣して許しを乞う仲間を逆に慰め「全員で代表を支えよ」と言い置いて息を引き取った。
ジョンファンは先生が16万語分の原稿を書き写して自宅に保管していたと知り、作業を再開する。多数の方言の中から標準語を決めるため、全国の元朝鮮語教員らを集めて公聴会を開くことにし、パンスの勤める劇場を会場に選んだ。関係者は毎晩観客を装って入場し、終演後に議論を続けた。しかし最後は警察にばれ、二人は逃走した。
銃撃で傷ついたジョンファンはパンスに原稿を託し、釜山の同志に届けるよう頼む。パンスは駅で切符を買った際に怪しまれ、警官から逃げる途中でビルの倉庫にカバンを投げ入れた後、射殺された。日本が敗戦で撤退すると、ジョンファンは朝鮮語学会を復活させ、思いがけず発見された原稿をもとに辞典を作り始めた・・・。
映画はこうした流れに沿って、多くの感動的なシーンを盛り込んだ。居酒屋のテーブルにマッチ棒を並べて字の復習をし、街を歩きながら店の看板を読み上げるパンス。文字を学ぶとは新しい世界に目を開き、自分に誇りを持つことだ。前回の連載「夜間中学」で触れた、元夜間中学生髙野雅夫さんの体験とも共通する。
主人公の家族も、当時の日本との関係を踏まえて巧みに描かれている。パンスの息子ドクジンは幼い妹スンヒをかばい、スンヒは学会メンバーのアイドルに。一方、ジョンファンの父はかつて熱烈な民族主義者だったが、今は親日派でドクジンの中学校の理事長。総督府の役人や警察に嫌味を言われ、息子に活動を禁じて激しくぶつかり合う。
学校で朝鮮語を口走って先生に殴られた後、独断で金山と姓を改め、「学校でいじめられないように」と妹に日本語を教えるドクジンの姿は痛々しい。スンヒは「私は今の名前が好き」と改名を拒む。同じことが、半島全体で繰り広げられたはずだ。
映画は、成長した兄妹が教師として、生徒として通う中学校を訪れたジョンファンが2人に会い、「朝鮮語大辞典」を渡す場面がクライマックスとなる。巻頭には「キム・パンス同志へ」との献辞。兄妹の暮らしは大変だったはずだが、神経質だったドクジンはたくましい青年に変貌していた。言葉と民族の誇りを取り戻したおかげ、との思いを込めた演出とも感じられた。 (続く)
2021/01/29
「マルモイ」と朝鮮語学会事件(下) ―高知から(5)―
<石塚直人(元読売新聞記者)>
配給会社「インターフィルム」(東京)によれば、日本では昨年7月に公開され、これまでに約2万2000人が鑑賞した。コロナ禍で監督の来日が中止されるなど宣伝が不十分だった中では、善戦と言えるかもしれない。
高知県内には上映する映画館がなく、私も参加する「日本コリア協会・高知」が2か月前から同社と交渉、実現させた。地元紙で予告記事が報じられると、「でたらめな映画を上映するな」という嫌がらせも寄せられた。
こんな声を聞くと、日本人であることが恥ずかしくなる。20世紀前半という時代を考えれば、植民地支配が直ちに罪悪とは言いにくい。しかし、彼らの言葉も文化も奪って日本のそれを押しつけるのは言語道断。仮に日本が他国に占領され、「日本語を使うな、英語(中国語、朝鮮語、ロシア語)で」などと命令されたら、と想像してほしい。
日本語と朝鮮語は文の語順などがほぼ同じとはいえ、音韻には全く別のものもあり、朝鮮語では語頭に濁音が来ることはない。前回触れた「オモニハッキョ」で私が教えた女性は「かっこう」と「がっこう」を聞き分けることができなかった。関東大震災では「井戸に毒を入れた」とされて多くの朝鮮人が虐殺されたが、その目印とされたのが「十円五十銭」。「チュウエン―」としか発音できない人が朝鮮人とみなされた。
ハッキョでは、小学校高学年の漢字を完璧に覚えた人でも、文章を書くとひらがなの清音と濁音を間違えることが珍しくない。植民地朝鮮では長く日本人と朝鮮人の生徒が通う学校は別とされ、38年の第3次教育令による共学方針も徹底しなかったが、朝鮮の子どもは劣等感に苛まれることが多かったろう。頭では理解できたことも、正しい日本語で答え答案に書けなければ正解にならないのだ。自分がその立場だったら、と想像するだけで寒気がする。
長崎県立大学の李炯喆(イ・ヒョンチョル)教授(日本政治外交史)の論文「植民地支配下の朝鮮語」は、多くの韓国人が当時を「日本語強要」「朝鮮語禁止と抹殺」の時代とみているのに対し、日本人は「朝鮮語の禁止・抹殺は虚偽」と認識しているとする。1930年代末期以降、学校や官庁で朝鮮語が禁じられ、国語常用運動が展開されたことが「強要・抹殺」論につながった。
ただ、日本人に多い反論「それでも朝鮮語は使われていた」も事実だという。30年代末でも日本語を解する朝鮮人が15%に満たなかったことから、統治のためにはそうするしかなかった。総督府機関紙「毎日新報」はハングルと漢字の混用にし、京城放送局のラジオ放送も日本語の第1のほか、33年に朝鮮語専用の第2を開設した。
第2放送は、昼間に講演やニュースを通して内鮮一体の機運を高め、夜は朝鮮の伝統音楽を流して聴取者(家庭では月額1円が必要)を増やした。朝鮮語の読み書きができなくても聞き取れるよう、局には「平易な俗語を使い、正確に発音する」ことが求められ、これが朝鮮語の純化にもつながった。43年11月以降は、祝祭日や人名、地名などを日本語読みで放送した。
李教授は「総督府が朝鮮全土で法令を以て朝鮮語使用を禁止したことはなかった」としつつ、「訓示や通牒でも十分に学校と公共の場で朝鮮語使用の禁止はできた」。朝鮮民族にとってはやはり「民族性の剥奪」だったと結論づけている。
入学した74年、日本で朝鮮語を学べる大学は少なかった。専門の学科を持つのは大阪外大と天理大だけ。かつてあった東京外大のそれは植民地化で廃止され、77年まで復活しなかった。語学講座があるのは70年で11校、80年で約30校。朝鮮語など学ぶに値しない、という差別意識がずっと残っていた、と言うべきだろう。
大阪外大に朝鮮語学科ができたのは63年。学科主任は当時の学長が兼務し、京都大大学院で言語学を学んだ塚本勲さん(86)が専任講師として着任した。塚本さんは京都の朝鮮高校で教えながら朝鮮語を学んでおり、韓国人客員教授らと協力して「朝鮮語大辞典」の編纂と市民向け夜間講座をスタートさせた。出版のめどはなく、作業を通して朝鮮を知り、日朝両民族の親善を図ることを目指した。
前期2年間の授業で「日本の朝鮮研究は百年遅れている。少しでも取り戻さねば」という呼びかけを何度耳にしたことか。77年には私財を投じて学外に「猪飼野朝鮮図書資料室」を開設、語学講座も拡充した。言語系ゼミの院生や学生は、労力の大半を辞典づくりに費やし、夜間講座で講師を務める同級生もいた。ただ、私自身は語学よりも韓国の民主化闘争や日本国内の民族差別に関心があり、ほとんど手伝うことなく卒業した。
辞典が出版されると、「画期的」とする激賞が相次いだ。作家の金石範氏は「かつて日本軍国主義の犯した大罪科が、日本人学者らによって償われているような思いがする」と書いた。しかし、売れ行きは伸びなかった。
塚本さんが定年退官の翌年に出した「朝鮮語を考える」(2001年、白帝社)によれば、辞典づくりは最初から大きな壁にぶつかった。
朝鮮民族は1つとの信念から「38度線の北と南を対等に扱う」と決め、韓国を代表する辞典をベースに単語カードを作っていたところ、一部の朝鮮人とこれに同調した共産党関係者が「韓国の単語は載せるな」と攻撃してきた。韓国はアメリカ帝国主義が不法に占拠している地域に過ぎず、国ではないからだという。
半年にわたって学生らが連日、研究室に押しかけて「辞典をつぶせ」と叫び、教授会でも同じ声が聞かれた。今では想像するのも難しいが、北朝鮮が「輝ける社会主義の国」とされた60年代のこと。塚本さんは心労から何度も心臓発作を起こし、療養を強いられた。
日本の学界や論壇は南北の両方に対し、その現実を知るよりも政治イデオロギーを優先させがちだった。共産党は後に北朝鮮との関係が冷却化したが、当時を知る学科OBは「1期生の中に強硬派の活動家がいて、後輩の自分もなぜ辞典づくりに協力するのかと翻意を迫られた」と回想する。
英語やフランス語のそれと違って需要が望めず、ハングルを組める印刷所もなかった。それでも引き受けてくれた出版社が倒産したのが75年。角川書店の好意で再出発してからも10年が過ぎ、原稿量は2倍に増えた。スタッフは疲れ果て、赤字が膨らんだ。塚本さんは「父を騙して」先祖代々の土地を5つ売った。
辞典は日韓両国で同時発売され、韓国では海賊版が出た。後日、京都で日韓親善の学術交流会があり、数人の韓国人学者は全員が海賊版を使っていた。塚本さんが咎めると「日本人は国を盗った」とひとりが言い、「だから自分は謝罪と親善のため40年を費やした」と大声で反論して、友好ムードは吹っ飛んでしまったという。
「朝鮮語を考える」には、朝鮮語学会事件で獄中生活を送った崔鉉培(チェ・ヒョンベ)ハングル学会会長を訪ねた思い出も紹介されている。「朝鮮民族の理解のために朝鮮語研究に励んでいると申し上げると、何度も何度もうなずかれた」。塚本さんは退官後も大阪市内で長く「ハングル塾つるはし」を主宰、今も奈良県の自宅で不定期に朝鮮語を教えている。
本箱から「朝鮮語大辞典」3巻を引っ張り出したのは何十年ぶりだろうか。長い間目前の仕事に追われ、朝鮮語を読む機会はなかった。分厚い上下2巻はそれぞれ3キロほどもあり、ずっしりと重い。
これでは使いにくい、売れないと思う一方で、朝鮮に関する情報自体が少なかったあの頃、スタッフが「百科事典」も兼ねたいと考えたことは理解できる。6巻に及ぶ「大辞典」が、韓国の人たちの精神生活に与えた影響は大きかったはずだ。
88年のソウル五輪、さらに2002年の「冬のソナタ」に始まる韓流ドラマやKポップの人気などで、日本人の朝鮮語(韓国語)学習者は急増した。大きな書店には教則本や旅行用の会話帳がずらりと並び、辞書も教材もほとんどなかった私の学生時代とは比べようもない。
しかし今の南北朝鮮を巡るメディアの報道や論説には、旧態依然たる民族差別と冷戦思考が色濃く残っている。韓国での元徴用工裁判や慰安婦、北朝鮮の拉致問題や核開発について、私が40年在籍した新聞社の社説はまるで自公政権の代弁者だ。朝日・毎日など政権に批判的な新聞も、安全保障や「国益」が絡むとそちらに引きずられる。日本の植民地支配によって蹂躙された被害者に寄り添う姿勢はまだ弱い。
本気で東アジアの平和を望むなら、加害者としての自覚と謝罪が欠かせない。兄貴面で相手を見下しても反発されるだけだ。65年の日韓条約は韓国が貧しかった時代に結ばれたが、今は多くの韓国人が両国は対等と考えている。民族の分断も超大国の都合で強いられた以上、永久に固定化されるより何とか北と共存したい、と望んで当然だろう。
日本の国益を主張するにも、まず相手を理解し互いに信頼関係を築く必要があり、それには事実を事実として認めることが出発点となる。「マルモイ」と朝鮮語学会事件は、日本人にとって絶好の教材なのだ。
今のところ2月28日の東京・新文芸座以外、上映予定はないというが、4月にはDVD・BDが発売される。多くの方に見ていただきたい。