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2020/08/27
42年続く「戦争展」(下)      ──高知から──

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▲「戦争展」に展示された焼夷弾の破片(2020年6月30日)=筆者撮影
石塚直人(元読売新聞記者)

 デスクに原稿を出した翌11日夜、支局長に呼ばれ「批判に反論できる材料がないと掲載は難しいです」。反証を探し、12日朝に提出するとともに「一連の写真は戦時下で人間がどうなるかを考えるための絶好の資料。不当な言いがかりに屈して読者の知る権利を奪うのはおかしい」と1000字の長文メールを添えて説得を試みた。
 この日午後から17日まで、私は非常勤で教えていた岡山の大学に出向くなどで高知を留守にした。14日に支局長に電話すると「もう少し検討させて下さい」。閉幕を翌日に控えた16日、原文を少し縮めた35行と写真が掲載された。
 無数の目撃者がいる旧日本軍の蛮行を「なかったこと」にしたい人たちが、歴史を無理やりゆがめるようになって久しい。似たやり取りは、他の新聞社や放送局でもあったはず。断じて許す訳にはいかないが、昔に比べ、管理職が外部とのトラブルを極端に恐れるのも確かだ。支局長が最後に折れてくれた背景には、頑固な老記者へのいたわりがあったのかもしれない。

 18、19年も私の記事は掲載された。ただ、退職後の今年は勝手が違った。主催者側、つまり裏方に回ったからだ。開幕前日には展示物の設営をし、期間中は受付業務を分担し、最終日は撤収作業に加わった。支局からは、初日に後輩記者が取材に訪れた。
 「<75年前の夏>を学び 未来を考えよう」と題した展示は、広島市立基町高校の生徒が被爆者の証言を聞きながら描いた「原爆の絵」約40点、高知空襲にまつわる写真や遺品、核兵器禁止条約の概要と批准国を紹介する世界地図、投獄され拷問を受けても反戦運動を続けた県出身者22人の紹介など。高知空襲の語り部によるビデオコーナーも設けられた。
 驚いたのは、毎年会場の入り口近くに置かれる焼夷弾の破片(2個)の重さだった。ふだんは「草の家」の玄関先にあり、展示のたびに軽トラックで運び込む。荷台に上げるのも下ろすのも男4人がかりで、ひとりではとても動かせない。
 爆発前の焼夷弾はこれよりずっと重く、それを何百も搭載したB29の巨大さにも初めて思い至った。調べると全長30メートル、全幅43メートル。これまで何となく、ゼロ戦やグラマンヘルキャットなど戦闘機クラス(全長10メートル前後)を想像していた自分の無知と、丸腰の市民を焼き殺す空襲の惨たらしさを改めて胸に刻んだ。
 受付当番の合間に、来場した高齢者や親子連れと言葉を交わしたのはうれしい体験だった。コロナ禍と連日の悪天候の中、「原爆の絵」や核兵器禁止条約のパネルをじっと見入り、感想を話し合う人が多かった。
 日本の片隅で静かに紡がれてきた42回。私が最初に出会ったUさんも、それを継いだ「草の家」の創立者Nさんも亡くなった。でも、彼らに続くメンバーの努力があってこそ、市民の「平和を愛する心」が育っていくのだろう。

 「戦争展」に触れたついでに、高知新聞社刊「秋(とき)のしずく 敗戦70年といま」(16年、1350円プラス税)を紹介したい。満州移民、シベリア抑留、高知空襲など、苛酷な体験をした人たちを記者が取材、14年2月から15年12月まで計74回にわたって紙面に連載した内容を本にした。シリーズは新聞労連ジャーナリズム大賞の優秀賞を受賞した。
 土佐弁の語りを生かした記述にはわかりにくさもあるが、時には20時間以上に及んだ取材は濃密で、説得力がある。デスクは、北海道新聞記者時代に道警の裏金問題の取材をリードした高田昌幸さん(現東京都市大学教授)が担当した。

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