/ 

2021/08/04
「平和資料館・草の家」の32年(上)   ―高知から(8)― 
<この記事は3部に渡っています。読みやすいように掲載時系列ではなく、上から(上・中・下)と並んでいます>

<石塚直人(元読売新聞記者)>

 コロナ禍がとめどなく広がる中、東京五輪は折り返し点を過ぎた。メディアは連日、日本選手団のメダルラッシュに沸き立ち、開幕までの批判は雲散霧消した感がある。
 今のところ、「とにかく競技が始まれば、皆が熱中し興奮する」という国際オリンピック委員会(IОC)と菅政権の目論見通りだ。これを支えるのは、まず総合・Eテレ・BS1のほとんどを五輪一色にしたNHKだろう。新聞ではやはり産経と読売が目立つ。
 記者なら誰でも知っていることだが、スポーツの取材、とくに写真は一瞬が勝負。緊張の度合いも他の仕事とは段違いで、担当者が一種の興奮状態になるのは避けがたい。とはいえ、組織全体として「熱狂の裏にあるもの」を無視する姿勢は、ジャーナリズムとして失格、というより犯罪ではないか。
 8月1日(日)の朝日朝刊が1面トップに「被爆76年」の連載の第1回として旧ソ連・カザフスタンの核実験場跡地ルポを入れ、2面でカザフと広島のつながりを示したこと、同日の毎日が4面全体を使って3人の被爆者に思いを語らせ、8面で斎藤幸平・大阪市立大准教授の寄稿により「五輪の陰で住宅と人間関係を奪われた」障害者男性の苦悩を可視化したことは、大手メディアとしての面目を保ったと言える。
 読売(大阪本社版)は、第3社会面に「風の子学園(不登校児を預かる広島県内の施設)」で30年前に起きた監禁死亡事件の回顧を入れた。それなりに記者魂を感じさせる記事ながら、東京本社版ではここに何が載っていただろうか。

 前置きが長くなったが、高知では例年、7月から8月にかけて平和のイベントが相次ぐ。連載の第1回で取り上げた「戦争と平和を考える資料展」は、1945年7月4日の高知空襲に合わせ、79年から毎年(2000年までは「高知空襲展」)開かれてきた。89年には高知市が広島原爆忌の8月6日を「平和の日」と定め、以来15日までの10日間、企画展や講演会を実施している。
今年は「戦争展」と「高知市平和の日」記念事業に加え、前回触れた「ビキニデーin高知」の実行委も8月6日から15日までの各1日、県内3か所で「平和のための映画会」を開く。こうした取り組みの中心に位置するのが、89年11月に高知市升形で開館した「平和資料館・草の家」https://ha1.seikyou.ne.jp/home/Shigeo.Nishimori/(岡村正弘館長)だ。

「草の家」の全景。4階建ての3・4階はワンルームマンション
40-s-1.jpg
 「草の家」は、市役所から歩いて5分ほどの住宅街にある。私立土佐高校教諭だった初代館長の西森茂夫さん(2004年没)が、自宅の一部を改築して建設。小規模ながらも多彩な活動ぶりで、世界の平和博物館の中でも異彩を放っている。
西森さんは土佐高から北海道大学に進み、学生寮で友人と討論しながら浪人時代に出合ったキリスト教信仰を深めた。卒業後は札幌市内の私立高に勤め、ここで高知出身の自由民権思想家・植木枝盛と反戦詩人・槙村浩(本名・吉田豊道)の偉業を知ったことから帰郷を決意。67年に母校の理科(生物)教諭となった。
以来、自由民権運動やプロレタリア文学運動を研究し、空襲展を始めた「高知空襲と戦災を記録する会」や、83年に発足した「自由民権記念館建設期成会」の中心メンバーだった。
 「記録する会」は、市民から寄せられた戦時資料の保存のため、早くから平和資料館の建設を提唱。自由民権記念館の建設運動が始まると、最初はその一部を転用、後には独立の施設とする方向で高知市に働きかけた。しかし、市は動かなかった。
85年5月には「平和資料館・草の家をつくる会」が発足した。ユニークな命名には、詩文に優れたロマンチスト西森さんの思想が強く反映している。「草の家」は草の根の民主主義を表す一方、大地に根を張った文字通りの「草」でもあり、反公害運動なども含め、生命そのものを慈しむ場となることを目指した。

 高知市との膠着状態が続く中、「あんたが建てるしかない」と西森さんの背中を押したのは、妻の遼子さん(83)。札幌市の出身で、北大学生寮の会計係として西森さんと知り合い、結婚した。ネックとなる資金問題をクリアするため、館をワンルームマンション付きにし、家賃収入でローンを返済するプランも提案した。
 思い切った決断が会員らを勇気づけ、毎年夏に続けてきた空襲展や「平和七夕まつり」なども追い風となった。「草の家」は高知市制百年の89年4月に着工。11月に鉄筋4階建ての建物が完成した。
1階116平方メートルは学習会や映画会、音楽会などに使える多目的ホール兼展示室、2階88平方メートルは情報資料室で、3・4階は賃貸マンション(8戸)。建設費約6200万円は夫妻が持ち、市民から集めた募金約500万円はピアノや映写機機を含む備品購入に充てた。遼子さんがローンを完済したのは、わずか2年前のことだ。

 「草の家」は長く「加害・被害・抵抗」の3つを柱に活動してきた。それぞれ「中国平和の旅」と県内で働かされた朝鮮人の実態調査、高知空襲、侵略戦争反対に命を賭けた先人の発掘などで、その内容は自前のブックレットでも紹介している。数年前からは4つ目の柱として「創造」を加え、友好団体とも協力しながら、平和運動を未来につなぐ新たな取り組みを始めた。

 第1回「中国平和の旅」は、91年8月に西森さんら10人が8日間にわたって訪中し、県出身者でつくる陸軍歩兵第44連隊が転戦した上海、無錫、南京などで体験者の証言に耳を傾けた。
 「ここまで侵略の事実を確かめに来た日本人は初めて」と地方政府の担当者に歓迎される一方、「村民が殺した豚や鶏を差し出したが、日本軍は何も聞かずに発砲した。皆が逃げると家を焼いた」「母と2人の姉は輪姦されて殺され、8歳だった私も銃剣で刺された」などには、全員が絶句するしかなかったという。
 以来、「旅」は98年9月まで計6回。2回目はバスに4時間揺られて着いた山岳地帯の村で、「日本人の顔など見たくない」と話す長老と本音のやり取りをした。6回目は、旧731部隊による細菌実験の犠牲者を生んだ湖南省常徳市に足を運んだ。
 92年には、67年に日中友好協会県連合会などが提唱したまま高知市の設置許可が下りずにいた「日中不再戦碑」を、同会と協力して高知城近くの公園に建立。翌93年には、第1回から通訳兼ガイドを務めた中国人女性(祖父が日本軍に殺された)が、参加者の招きで高知大に留学するエピソードも生まれた。

 強制連行や徴用による県内の朝鮮人労働については、高知大史学科に学んだ研究員の馴田正満さん(73)らが、情報公開請求や文献調査で多くの事実を明らかにした。
 92年には、県が53年に出した「高知県営電気事業史」第1巻に、発電所工事のため「朝鮮に電気局員を派して労務者321名の募集に成功した」との記述を見つけた。当時の朝鮮総督側近が「募集」の内実を「農作業の最中に説得してトラックに乗せ、そのまま連行して北海道や九州の炭鉱に送り込む」などと書き残しており、大半は民間人が代行、県が直接関与した例は珍しいという。07年には県議会で議員が再調査を求めたが、県は応じなかった。
 
高知空襲で焼けた市街地の写真(上)と市民から寄せられた資料
40-s-2.jpg
 「草の家」は発足以来、「高知空襲と戦災を記録する会」とともに空襲展を支え、92年12月に「戦争語り部の会」を発足させた。戦争体験者16人が小学校などで語り始め、今も退職教員の橋田早苗さん(68)らが引き継いでいる。
 二代目館長の岡村正弘さん(84)は8歳の時、高知空襲で母と2歳の妹を亡くした。防空壕が熱くて飛び出し、猛火の中を独りでさまよう。何とか父や兄姉と再会、夜が明けて兵隊たちが壕から黒焦げの遺体を掘り出すうち、妹を抱いたままの母と対面した。
 98年に高知市民病院の放射線技師を退職した岡村さんは、西森さんの勧めで語り部となった。最初に訪問した同市立春野東小学校では、母の遺体を見つけた場面で涙があふれ、言葉に詰まった。約300人の児童は黙って続きを待っていた。
 岡村さんの体験は紙芝居にまとめられ、岡村さんは2000年から元看護師の妻花子さん(82)と紙芝居公演を続けてきた。花子さんが体調を崩して3月に引退した後は、「草の家」のメンバーが同行する。回数を数えたことはないが、最低でも年に10回以上、計300回近くにはなるという。
 「先生方は『うちの子は集中しない』と謙遜されるけど、どこでも真剣に聞いてくれる。土佐弁まる出しじゃから違和感がないのかもしれん」と岡村さん。
 「記録する会」が始めた高知空襲の犠牲者調査は2003年、岡村さんらが約400人分の犠牲者名簿を市に提出した。市はこれを受けて大原町に「平和祈念の碑」を建て、翌年7月4日に除幕。以来毎年この日に「平和祈念式・追悼集会」が開かれている。
(続く)
2021/08/04
「平和資料館・草の家」の32年(中)   ―高知から(8)― 
<石塚直人(元読売新聞記者)>

多目的ホールで思い思いに活動する会員ら(左端が岡村館長)
41-s-1.jpg
 「抵抗」は、槙村に対する西森さんの敬慕の念が出発点だ。彼は西森さんと同じ市立第六小の在籍中から神童として有名で、長じて軍事教練に反対して中学を追われ、共産主義運動に入った。代表作に、植民地朝鮮の独立運動をたたえた「間島パルチザンの歌」(32年)がある。
 高知刑務所での拷問により38年に26歳で早逝したが、彼とともに第44連隊兵営で反軍ビラをまいた元同志らは、63年に創刊した雑誌「ダッタン海峡」で故人を顕彰。西森さんは77年に同誌を復刊し、9号まで出した。84年に元同志が出版した「槙村浩全集」にも協力、刊行後に発見された論文「日本詩歌史」などを「草の家」で刊行した。
 「ダッタン海峡」10号は槙村生誕100周年の14年、「草の家」から発行。彼と同時代の活動家や、当時の共産主義運動の記録を含む貴重な文献となっている。 

 「創造」は、館の活動が広がるにつれ、3本柱ではカバーできない分野に及んだことで追加した。とくに力を入れる戦争遺跡の保存では、高知市曙町にある旧陸軍歩兵44連隊跡地を高知県が財務省から買い取る原動力となった。地方の平和資料館としては珍しく、早くから欧米・アジアとの連携を打ち出してきたことも特筆される。

 戦争遺跡の保存活動をリードするのは、古参会員の出原恵三さん(65)。奈良大史学科を出て帰郷後、高校教諭を経て県教委で埋蔵文化財調査を長く担当、16年春に定年退職して副館長となった。戦争遺跡保存全国ネットワーク(事務局・長野市)の共同代表も務め、広島市の旧被服支廠の保存運動などにも尽力する。
44連隊跡地は戦後、大半が高知大学の朝倉キャンパスとなったが、一部が大蔵省(現財務省)印刷局の施設として残り、弾薬庫と講堂が現存する。高知財務事務所が11年に売却方針を示したことから、「草の家」が地元有志とともに保存運動に取り組み、紆余曲折を経て19年、県が買い取りを表明した。現在、弾薬庫などとその周辺をどう生かすか、県が検討を進めている。

平和憲法の誕生を伝える展示。
きちょうめんな文字に創設者・西森さんの願いがこもっている
41-s-4.jpg
 戦跡調査は意外な副産物も生んだ。出原さんは11年、東京の防衛省防衛研究所・戦史研究センターで、中曽根康弘元首相(故人)が海軍主計中尉時代、ボルネオ島で慰安所の設置に深く関与したことを示す文書を発見した。兵士らの争いを治めるため「主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設 気持の緩和に非常に効果ありたり」と記されていた。
中曽根氏は78年刊の回想録で慰安所に触れているが、その後は記者らの質問に「碁を打つなどの休憩所だった」と答えてきた。文書が事実ならウソをついたことになり、「草の家」が記者会見、朝日や高知新聞が報じた。出原さんが当時、県職員だったことから、会見は馴田さんらが代行した。「草の家」は中曽根氏に公開質問状を送ったが、回答はなかった。

 国際的な平和博物館との連携は、高知大の非常勤講師だった山根和代さん(現立命館大客員研究員)が、92年に英国で開かれた第1回平和博物館国際会議で、10か国からの参加者に館の活動を報告したのが始まり。3年ごとの会合で知り合った多くの関係者が「草の家」を訪れ、同館からも93年、憲法九条を紹介する11か国語の土佐和紙カードを107か国の元首に送るなどした。
 米スミソニアン博物館が国内の反対で広島原爆資料の展示を断念した95年には、同国デトロイトの平和センターに被爆者の写真パネルを提供。同年に国連が発行した冊子では、広島平和記念資料館などと並び、世界の50平和資料館の1つとして掲載された。

 「草の家」の国際連帯活動で忘れられないのが、韓国人の金英丸さん(48)だ。強制連行された朝鮮人の遺骨探しなどを手がける中で2001年、研修生として着任、事務局長を任された。巧みな日本語を生かして学校や公民館で韓国の歴史・文化を語り、高知大で平和学の非常勤講師も務めた。06年の帰国後はソウルのNGО「民族問題研究所」で活動している。
 山根さんは10年に高知を離れ、京都で大学の講義や「平和のための博物館国際ネットワーク(INМP)」の機関紙編集などに忙しい。代わって国際交流を担うのは、前回の「ビキニ被災を追って」で触れた岡村啓佐さん(70)。被爆者・被曝者の人権保障をライフワークにし、12年に副館長となった。「英語が話せないので」と謙遜しつつ、「ピースボート」で各国の若者と平和を論じ合うなど活発に行動している。

玄関を入ると事務室がある
41-s-2.jpg
 「草の家」ができた89年秋、私は記者10年目で姫路支局にいた。88年春までの高知勤務で西森さんとも親しく、「つくる会」の会員でもあった。
 しかし竣工式には参加できず、初めての訪問は2度目の高知勤務が始まった94年春。同年秋の「草の家だより」は、「日本の軍事費は英仏を上回る507億ドル」などとともに「コメの輸入自由化も広義の平和問題」と環境を守る取り組みも訴えた。翌95年には、会員が所有する大豊町の山林伐採跡地25ヘクタールを舞台に、自然林の育成を目指す「憲法の森」事業も始まった。
96年には「第18回高知空襲展」を軸に「高校生平和祭」「平和演劇祭」など計11件まで増えた平和行事を「ピースウェーブ」と総称、事務局を「草の家」が担当するスタイルが生まれた。これは今も続いている。

 私は94年から2年間、主に県庁や高知市役所を取材し、支局デスクを経て98年春、大阪本社に異動した。最初の5年間は家族を高知市に残して単身赴任。帰省のたび「記録する会」梅原憲作さんらに会い、彼の仲介で金さんとも意気投合した。家族とともに兵庫県西宮市に引っ越した後の2005年夏には、戦後60年を期して「草の家」が出した「高知・20世紀の戦争と平和」(A5判、203ページ)に一文を寄せた。

 18年ぶりに高知に戻った16年以降は、「草の家」でも新たなメンバーと知り合った。学芸員の藤原義一さん(74)はこの年、槙村浩の生涯と当時の社会情勢を紹介する評伝「槙村浩が歌っている」を出したばかり。高知大在学中に作品に触れ、還暦を過ぎてから高知県立大の修士課程で詳しく研究したといい、地方版で刊行を報じた。
第44連隊跡地の保存問題では、地元見学会やシンポジウムにも足を運んだ。30年以上前、古代遺跡の発掘現場で取材した出原さんとの再会は、時の流れを感じさせた。
 「草の家」は創立30周年の19年、2度の「韓国の旅」を実施し、同国の「植民地歴史博物館」と友好協力協定を結んだ。海外施設との協定は、16年の中国「侵華日軍第731部隊罪証陳列館」に続くもの。11月には記念誌を出版、祝賀会も開かれた。

 退職後の昨年夏から役員となり、月例会に参加して痛感したのは、連携する運動団体の多いことだ。「ピースウェーブ」だけでも県生活協同組合連合会、高知平和美術会、新日本婦人の会など。「ビキニデーin高知」実行委や「原発をなくす県民連絡会」「郷土の軍事化に反対する県連絡会」などにも加わっている。
(続く)
2021/08/04
「平和資料館・草の家」の32年(下)   ―高知から(8)―
<石塚直人(元読売新聞記者)>

満州事変にまつわる資料を中心に展示した今年の「戦争展」
42-s-0.jpg
 今年の「戦争展」は、「『満州事変』90年・侵略戦争を考える―核兵器禁止条約発効の年に―」と題し、7月2日から11日まで高知市立自由民権記念館で開かれた。
 日本は明治以降、日清・日露戦争によって台湾、朝鮮、サハリン南半部など、第一次世界大戦後は旧ドイツ領の南洋諸島を植民地とした。関東軍が鉄道を爆破し、中国軍の仕業と偽って奉天などを占領した31年9月の「柳条湖事件」に始まる満州事変は、翌年の「満州国」建国を経て、37年には中国との全面戦争となる。
 事変後、現地では中国人による「反満抗日」運動が起こり、関東軍は「匪賊討伐」と称して抗日軍や日本の土地収奪に反対する農民を殺害した。32年9月には、撫順炭鉱近くで3000人近い丸腰の村民を虐殺する「平頂山事件」が起きている。炭鉱が抗日ゲリラに襲撃されたことから、村民による内通と決めつけて彼らを崖下に集め機銃掃射、崖を爆破して生存者も生き埋めにした。
 武力による抵抗がほぼ鎮圧された後、政府は満蒙開拓団員として45年までに約27万人を現地に送り込んだ。団員は苛酷な自然条件に耐えて農業に励み、同年8月のソ連軍侵攻後は武器もないまま放置され、逃避行で約8万人が犠牲となった。中国残留孤児となった子どもも多かった。

 展示は、県内で最も多くの犠牲者を出した県西部の旧幡多郡十川村(現高岡郡四万十町)の「十川万山開拓団」にまつわるものが中心。入植者547人中、6割の361人が亡くなった。団員のひとりが帰国後に色鉛筆で描いたイラスト集「戦争が生んだ狂気」は、27枚・49カットで逃避行や難民収容所の惨状を再現、ペン字のメモも添えた。
 文献資料では、国や県の方針に沿うだけの団員集めに苦労した同村の末端部落の総会議事録など。遼陽日本人居留民会の会長が戦後に外務大臣に出した報告書は、ソ連軍の略奪や強姦に対し「会で特殊慰安所を急設するほか別に特殊接待婦を準備して」などと書き、テレビ放映で注目された旧黒川村(岐阜県)開拓団の悲劇が他にもあったことがわかる。
 国が38年から募集した「満蒙開拓青少年義勇軍」についても、「草の家」理事の前田千代子さん(74)が元団員だった亡父の遺品をもとに関係先を取材し、この春出版した「鍬の戦士 父・前田定の闘い」を販売。多くの写真も公開した。

 「平頂山事件」については、現地の記念館がまとめた資料パネルを展示した。事件の概要とともに、日本が管理する撫順炭鉱が1907年から45年までに2億トンの石炭を掘り出し、苛酷な労働条件の下で労働者約21万人が死傷したことにも触れた。事件では生存者3人が96年、日本政府に損害賠償を求めて提訴したが、三審とも虐殺は認めたものの、損害賠償は棄却し、確定している。
 朝鮮半島についても独立のコーナーを設け、労働力不足を補うため200万人以上が日本に連れてこられ女性が慰安婦とされたこと、満州への移民も多かったこと、日本の隣組と同じ「愛国班」が全土で組織されたこと、38年以降は志願兵制・徴兵制が相次ぎ敷かれたことを説明した。例年同様、高知空襲や戦争に抵抗した若者群像などの資料も公開、主な展示物についてのプリントも配布した。
上は「突然侵入してきたソ連軍戦車」
下は「追い立てられるように避難する開拓団員ら」
42-s-1.jpg
 期間中、見学者からは多くの感想文が寄せられた。逃避行のイラストから受けた衝撃の大きさに触れたもの、平頂山事件など日本の「加害」をもっと知るべきだと論じたもの。シベリア抑留者だった父の「つらかった人生に目をそむけてきた自分が情けない」と後悔を述べた50代女性、「戦争体験者がいなくなる今、私たち若い世代の行動が大切と思います」と書いた10代男性。中国残留孤児を名乗って「二度と戦争を起こさないように」と綴った人もふたりいた。

 32年目の「草の家」。車の両輪である80代ふたりの若々しさは特筆されよう。岡村館長が空襲体験を語る声には、昔と変わらぬ張りがある。長い高知暮らしで土佐弁を自在に操る西森遼子さんは、文字通りの「肝っ玉母さん」。50歳ほども年の離れた塚地衣都さんと事務局に詰め、「草の家だより」の郵送料節約のため近郊の会員宅を自転車で回る。
 「それでもいつまで続くかわからない」とのふたりの危機感がバネとなり、昨年からは法人化など館の将来設計の検討が始まった。これまで内外から寄せられた膨大な戦争関連資料も、計画的に整理・分析を進めている。今年度の事業計画では、展示館としての充実を図るための「企画チームの立ち上げ」などが盛り込まれた。

 大阪府知事・市長だった橋下徹氏が「子どもが希望を持てない」などと展示内容にクレームをつけ、昨年休館に追い込まれた大阪人権博物館(リバティおおさか、大阪市浪速区)を挙げるまでもない。社会が右傾化する中、平和や人権を掲げる博物館はどこも理不尽な圧力にさらされている。山根さんは、「ほとんどの公立平和博物館で、日本の戦争の加害についての展示が行われなくなった」(「平和ミュージアムと平和教育」)と指摘した。
行き先も知らされず列車で運ばれる団員ら。
途中で遺体が捨てられることもあった。
42-s-2.jpg
 近隣諸国への侵略の歴史が日本人にとって「後ろめたい」のは確かだ。しかし、自分に都合のいい事実だけをつまみ食いした歴史認識は、被害者にも世界にも通用しない。極右勢力の妨害で開催の危ぶまれた大阪市での「表現の不自由展かんさい」(7月16~18日)が、「警察の適切な警備等によってもなお混乱を防止することができないとは言えない」とする裁判所の英断に助けられて無事に会期を終えたのは、大きな教訓となった。

 歴史の事実から目を背け、南京虐殺も従軍慰安婦も「なかったこと」と強調してやまない人たちに尋ねたい。あなた方はウイグル自治区や香港で無法の限りを尽くす現代中国政府をどう思うか。彼らの掲げる共産党の威信は、かつての日本の「大東亜共栄圏」と同じではないのか。

葬られた遺体に食らいつく野犬。悲惨極まりない
42-s-3.jpg
 ただ、私が中国人なら反論するだろう。「他国人ならともかく、日本人のあんたには言われたくない」。私たちが彼らをいさめたいなら、まずはかつての侵略を認め謝罪すること。第二次大戦後のドイツはそこから出発し、欧州平和の礎を築いた。彼らは今もナチスの蛮行に対する追及を緩めず、それが周辺国の信頼につながっている。日本でも学校で、博物館など社会教育の場で、近現代史をきちんと教えることが第一歩だ。
 「草の家」はいかにも小さく、会員も県外を含め約520人。しかし「加害」から目を離さずにきたその歴史には、格別の重みがある。
2021/05/14
ビキニ被災を追って(上)      ―高知から(7)―
<この記事は3部に渡っています。読みやすいように掲載時系列ではなく、上から(上・中・下)と並んでいます>

<石塚直人(元読売新聞記者)>

核被災者の支援を巡り、活発な意見交換が行われた全体集会(3月7日)
35-s-1.jpg
 1954年に南太平洋ビキニ環礁周辺で行われた米国の水爆実験で延べ約1000隻の漁船が被曝した「ビキニ事件」から67年が過ぎた3月、被災者を支援する高知の市民団体によるイベント「ビキニデーin高知」が、県内各地で10日間にわたって開かれた。
 この事件では第五福竜丸・久保山愛吉さんの死が広く知られるが、他の船の被災については36年前に高知の高校生らが掘り起こすまで、長く闇に包まれてきた。被害の全体像がほぼ明らかになったのはこの10年足らずで、関係者の粘り強い調査活動の賜物だ。
 高知では2016年から、多くの元漁船員らが難病に苦しみ早逝したのは国が被曝の事実を隠し、救済措置を怠ってきたせいだとして、裁判闘争が取り組まれてきた。今年1月には核兵器禁止条約が発効した。「ビキニデー」はこれらを受け、裁判の支援とともに世界の核被災者との連帯を高く掲げた。米国の核政策に追従してきた日本政府には、抜本的な政策転換が求められている。

 ビキニ水爆実験は、54年3月1日から5月5日まで計5回(キャッスル作戦としてはエニウェトク環礁での5月14日を含む6回)行われ、最初の「ブラボー」実験で被曝した第五福竜丸が3月14日に静岡・焼津港に戻ったことから世界的な注目を集めた。
 第五福竜丸はビキニ環礁の東約160キロ、米軍の設定した危険区域外で操業していたが、夜明け前に乗組員が巨大な火の塊を目撃、数分後に轟音と衝撃波が襲い、朝になって無数の白い粉が降ってきた。放射能を帯びたサンゴの粉末で、元漁労長の証言では「ビヤーッと横なぐりにぶつかってきた」という。夕方から眩暈や頭痛、吐き気、下痢などの症状が出始めた。粉が付着したところは火傷のようにただれた。
 乗組員23人は医師から原爆症を疑われ、全員が28日までに東京の病院に移送された。連日の報道で放射能不安が広がり、政府は太平洋から帰港したマグロ漁船に検査を義務づけ、一定以上の放射能を検出した魚の廃棄を命じた。
 同年12月までにマグロを廃棄した漁船は延べ992隻(後述する米国からの見舞金の配分決定時=55年4月=の閣議決定、うち高知県は270隻)に達した。同じ船によることもあり、実数は約550隻。月別では水爆実験が終わった6月以降に急増し、11月の162隻が最も多い。
 初期は核爆発時の「死の灰」を直接浴びたケース、その後は海水中の放射性微粒子がプランクトンや小魚に吸収され、それをマグロが食べた食物連鎖によるものだ。「死の灰」は成層圏まで噴き上げられた後、粒子となって長い間、広い範囲に降り注ぐ。半減期が300時間弱のバリウムなどはともかく、28年のストロンチウム90や30年のセシウム137などは、実験のたび海に蓄積されていった。

全体集会で活動をアピールする幡多ゼミОBと顧問ら
35-s-3.jpg
 「原爆マグロ」と呼ばれて他の魚も含め価格が暴落し、水産業界が大きな打撃を受ける中、第五福竜丸以外の漁船員の健康は後回しにされた。汚染マグロの廃棄自体、日本からマグロの缶詰を大量に輸入していた米国側の意向が働いた。船体の汚染がひどい場合は漁船員の被曝検査も行われたが、結果が本人に知らされることはほとんどなかった。
 4月15日から5月4日までビキニ海域で操業し、帰港時に第五福竜丸以外で最も高い放射能値を検出した「第八順光丸」の川淵秀馬さん(故人、高知県宿毛市)は「風呂に入って、頭を何度も何度も洗え」と指示されただけだったという。後にかゆみや脱毛、めまいや倦怠感などの症状が出たものの、繰り返し出漁した。海では放射能を含んだスコールを浴び、汚染された魚を食べて過ごす。仮に体調が悪くても、生活のため我慢するしかなかった。
 政府が12月末で放射能検査のすべてを打ち切ったことは、同月のマグロ廃棄漁船が114隻に上ったことを考えると、犯罪的とも言えるだろう。科学的な根拠が乏しいにもかかわらず「安全」と宣言し、多くの国民がそれを信じた。汚染マグロが食卓に供せられ、55年以降に出漁した漁船・船員の被曝データは一切ない。
 米国はキャッスル作戦の後、56年、58年に2作戦、計32回の核実験をビキニ・エニウェトク両環礁で実施した。日本政府の調査船も周辺海域で海水・大気の著しい汚染を確認したが、操業停止などの措置は取られずに終わった。貨物船や捕鯨船などを含めれば、この間で被災船が実数で1000隻、船員数で2万人を超えるのは間違いあるまい。

 日米両政府は54年春、第五福竜丸の被災が水爆開発の妨げになる、と危機感を募らせた。米国の原子力委員長は「被災報道は誇張されている」と乗組員のスパイ容疑まで仄めかし、岡崎外相は「自由主義陣営の日本が水爆実験に協力するのは当然」と言い切った。
 それでも連日のマグロ廃棄に加えて放射能雨が報じられると、抗議運動に火がついた。東京都杉並区では、鮮魚商の訴えから4月に区議会が水爆禁止を決議、主婦らによる署名運動は7月10日までに区民の71%、27万8733人を集めた。8月8日には同区公民館を事務局として「原水爆禁止署名運動全国協議会」が結成され、署名は12月までに2000万を超えた。
 この年5月時点で、水産業界が集計し政府に示した損害額は約25億円、米国が非公式に提示した補償額は5400万円だった。日米両政府は交渉の末、翌55年1月「見舞金7億2000万円を支払い、今後は新たな被害が出ても米国の責任を問わない」旨の交換文書を発表した。
 見舞金の配分は、水産業界に5億8400万円、流通・加工業者らに4100万円など。9月に亡くなった久保山さんの遺族には550万円、他の乗組員22人には4400万円を慰謝料とした。これは出漁中に命を落としてもわずかな補償しかなかった業界で妬みの対象となり、ビキニ事件を「第五福竜丸事件」に矮小化する役割を果たした。
 同年5月20日には、22人が一斉に退院した。自宅療養との名目ながら、これも幕引きの一環であり、誰もが再就職の当てもなく苦しい人生を強いられた。

 ビキニ事件と前後して、政府は原子力の「平和利用」キャンペーンを展開した。日本の原発は、54年3月2日に中曾根康弘代議士(後の首相)らが原子力研究開発の予算案を国会に提出したのが起点とされる。55年12月には原子力基本法が成立、翌年1月に原子力委員会が設置され、初代委員長に正力松太郎・北海道開発庁長官が就いた。57年には科学技術庁の初代長官も兼ねた。
 正力氏は24年に警視庁警務部長から読売新聞社長となり、54年7月から69年まで(大臣在任中を除く)社主の座にあった。米国中央情報局(CIA)と連携して「原子力平和利用博覧会」を55年11月から1年半かけて全国10か所で開き、読売新聞と地元紙・テレビが原発によるバラ色の未来を演出して約220万人を集めた。55年8月に第1回原水爆禁止世界大会が開かれた広島市でも翌年夏、約11万人が訪れた。

全体集会で基調提案する山下正寿さん
35-s-2.jpg
 闇の中の「ビキニ事件」を掘り起こしたのは、高知県西部の幡多地域で83年に結成された「幡多高校生ゼミナール」の生徒たちと、県立宿毛工業高校教諭だった山下正寿さん(76)=現太平洋核被災支援センター事務局長=ら地域9校(分校を含む)の顧問教員だ。「足もとから平和と青春を見つめよう」を合言葉に、学校の枠を超えて戦争などにまつわる地域の近現代史を学んでいた。
 研究テーマは生徒たちと議論して決め、面談調査などは顧問が相手と調整し、事前学習を経て臨む。戦後40年で地元の被爆者調査がテーマだった85年3月下旬、山下さんと西村雅人さん(当時、県立宿毛高大月分校教諭)は県被爆者友の会の役員だった岡村利男さん(故人)から「うちの息子は長崎の後、ビキニでも放射能を浴びて自殺した、と話している女性がいる」と聞かされた。
 山下さんは最初、第五福竜丸の乗組員かと思ったという。ほどなく上岡橋平さん(同県立清水高校教諭)も加えた3人が、宿毛市内の漁村・内外ノ浦に藤井馬さん(故人)を訪ねた。彼女は一男一女とともに長崎で被爆した後、郷里の宿毛に戻ったといい、息子の話題になるや「ビキニで」と語り始めた。
 息子の節弥さんは第五福竜丸と同じ頃、遠洋マグロ漁業の基地だった室戸のマグロ漁船に乗ってビキニ海域で操業。その後も船を替えて出漁を重ねるうち体調を崩し、二重被曝の恐怖に怯えながら入院先の神奈川県で60年8月に入水自殺した。27歳の若さで、被曝時の船名は不明とのことだった。
 さらに調べるなら室戸だが、200キロ以上離れ、往復するだけで1日かかる。まず5月に高知新聞社(高知市)を訪れ、3月1日にビキニ近くで操業していた県内漁船4隻の名前をマイクロフィルムで確認した。第五福竜丸平和協会(東京)にも照会した。送られてきた資料集からは、かなりの県内マグロ漁船から放射能が検知されていたことがわかった。新聞報道一覧表には、県立室戸岬水産高校生の谷脇正康さんが54年5月の漁業実習後、白血球が長期にわたって減少した(9月30日、大阪毎日)との記述があった。

 高校生の名まで浮上したことで、顧問らは6月7日に室戸に向かった。途中の安芸市では、室戸で船員同志会の事務局長だった男性から、浦賀(横須賀市)に多くの県出身者がいたこと、被曝についても調べたが証言は得られなかったことを聞き出した。宿舎の船員保養所で見た全日本海員組合の機関紙には、56年の核実験で貨物船員が被曝し2人が亡くなり、元同僚が「被害は他にもあったはず」と語った記事が載っていた。
 翌日は船主組合や船員組合、当時業界の重鎮だった人たちを訪ねた。室戸岬水産高校では谷脇さんが卒業を待たず亡くなったこと、近くに住む妹からは兄が相撲部員で頑健だったことを確認した。ただ、地元で彼の死がなぜか秘密にされている、とも感じたという。
 山下さんらは6月18日、東京に飛び、節弥さんの姉から故人の船員手帳などを借りた後、入院先や第五福竜丸展示館などを回った。船員手帳で被曝時の船を特定するつもりだったが、手帳は50年から53年10月までの乗船歴の後、12ページ分が破り捨てられていた。高知社会保険事務所で見た船員保険の記録も、54年分は8月以降だけ。運輸省の台帳からも、手帳の番号は消えていた。
(続く)
2021/05/14
ビキニ被災を追って(中)      ―高知から(7)―
<石塚直人(元読売新聞記者)>

36-s-1.jpg36-s-2.jpg
多くの見学者を集めた写真展(3月13日)
謎は残されたものの、2人がビキニ被曝の犠牲者だった可能性は極めて高い。6月中には生徒たちが馬さん方を訪れて話を聞き、近所を回って当時ビキニ海域で操業した漁船員がいないかを尋ねた。すぐに何人もの関係者が見つかった。
 当時のゼミ生は約50人。ほぼ毎週のように、顧問が入手した船員名簿を頼りに数人ずつが分担して元漁船員宅を訪ね、当時の仕事内容や体調の変化を聞き取った。東部の大方町(現黒潮町)などでは、集会所も使われた。幡多14漁村すべてにビキニで操業した漁船員がおり、「仲間が何人もがんで死んだ」「10年ほど前から肝臓障害や手足のしびれがひどい」などと証言した。
 7月には室戸市での1泊2日調査にも着手した。幡多は沿岸・近海漁業が中心で、遠洋マグロ漁船の多くは室戸か室戸岬が母港だったからだ。生徒たちは早朝から各地の顧問宅などに集まり、まず合流地の中村市(現四万十市)を目指した。宿毛市内の山下さん方の集合時刻は午前4時。「ワゴン車に生徒7人が乗り、歌ったりしゃべったりでとにかく賑やか。参加を求めたことは一度もないのに、よく続いたと思う」と振り返る。
 室戸調査は最初、難航した。魚価暴落への恐怖から業界全体が被曝をタブー視してきた歴史があり「何も話すことはない」と口をつむぐ人が大半だった。それでも2度3度と訪ねるうち、「わざわざ遠くから来て、真剣に話を聞いてくれる」と共感の輪が広がっていった。

 ただ、同じ人が多くの漁船を乗り継いだり、同郷グループが三崎(神奈川県)など他県の船に乗り組んだりの例も多く、高校生と顧問の調査には限界があった。山下さんらは9月に医師や科学者、平和団体メンバーらを含む「県ビキニ水爆実験被災調査団」を結成、幡多ゼミは高校生としての調査や学習・交流活動に専念することにした。
 86年4月までに両者で県内の被災者83人を調べ、うち22人ががんなどで亡くなり、生存者の多くに内臓疾患や皮膚病などが見られた。調査団はこの年、土佐清水市と室戸市で初の健康相談会を開き、計18人が訪れた。担当医師は「ここ5年ほどでがんが急増しており、行政による大規模調査が必要」と指摘した。
 両市による追跡調査も行われ、県内各地に「被災船員の会」が生まれた。幡多ゼミは85年8月の原水爆禁止世界大会(長崎)に代表を送り、翌年からは全国高校生平和集会で取り組みを報告した。顧問団は86年夏、ビキニを含むマーシャル共和国を訪れて現地の被曝者と交流した。87年には全県組織「県高校生ゼミナール」ができた。
 生徒たちは先輩から後輩へと活動をつなぎ、全国に交流の輪を広げた。焼津では地元中高生らと学習会を持ち、久保山愛吉さんの妻すずさんに面会した。89年からの沖縄調査では、当時ビキニ海域にいたマグロ漁船2隻の乗組員68人中17人が40~50代で死亡(11人はがん)、米国占領下で放射能検査の結果は知らされなかったことを学んだ。
 これらの活動は、森康行監督のドキュメンタリー映画「ビキニの海は忘れない」(90年、ナレーターは吉永小百合さんら)や全国教研集会で広く紹介された。

 しかし、調査団の活動は92年頃からストップした。約200人に及ぶ追跡調査を受けて90年6月県議会に提出した「被災船員の医療補償に関する請願」は、自民党の反対で不採択となった。「船員の会」の代表らが次々に入院・死亡する不運にも見舞われた。調査の結果を裏付ける文書の入手も、政府の「資料がない」の壁に阻まれてきた。
 幡多ゼミの活動も、映画化後は朝鮮人の強制連行に主軸を移した。四万十川上流の鉄道やダム建設に動員された彼らの足跡を掘り起こし、92年のNHK「青春メッセージ」で最優秀に選ばれた神戸朝鮮高級学校の女生徒を招いて相互訪問を重ねた。翌年夏には韓国を訪れ、元慰安婦や高校生と対話した。一連の取り組みは映画「渡り川」(94年)に結実し、2003年夏の釜山合宿からは毎年の日韓交流が定着した。
 山下さんは教員を退職後も顧問としてとどまり、ほとんど独力でビキニ調査を続けていたが、被災50年を翌年に控えた03年11月、周囲に呼びかけて調査団を再開。2隻の元船員26人の追跡調査では、死者の半数が70歳未満で、後年になって突然発症する晩発性障害だったことを裏付けた。
 調査団が翌年3月に出した「もうひとつのビキニ事件」(平和文化刊)は、韓国のマグロ漁船が被災した可能性にも触れ、改めて医療補償制度の充実を訴えた。05年1月には、名称を「高知県太平洋核実験被災支援センター」(福島原発事故が起きた11年からは「太平洋核被災支援センター」)と改めた。

 04年から山下さんらの活動を追った南海放送(愛媛県)は、この年10月から全国放送「NNNドキュメント」でビキニ被災問題を相次ぎ放映。10年には米国エネルギー省のホームページから、キャッスル作戦に伴う放射性降下物について重要部分が削除されていた公文書を復元した。これらを集大成した「放射線を浴びたX年後」(12年にテレビ放映・映画化)は、各界から高い評価を受けた。
 13年にはNHK広島放送局が、米国公文書館でビキニ被災船のリストを発見、海上保安庁や厚生労働省から米国に送られていた調査資料も確認した。
 14年8月には、同放送局制作のNHKスペシャル「水爆実験 60年目の真実」が放送された。放射線物理学など各分野の専門家と山下さんらが連携し、元船員らの歯や血液を分析して被曝との因果関係を明らかにする一方、米国公文書館のデータも紹介。米国の元高官は「ソ連との核開発競争のため、邪魔になるデータはすべて隠した」と証言した。
 同年9月には、同センターなどの請求で厚労省が関係文書を開示した。船員の血液検査結果などは黒塗りとされ、野党国会議員の追及で1か月後にようやく公表するありさまだった。
 
 一定の公的資料が明らかになったことで、16年2月に被災者と遺族10人が全国健康保険協会に労災認定を申請した。5月には山下さんら45人が国を相手取り、国家賠償請求訴訟を高知地裁に起こした。労災申請は「病気と被曝の因果関係が確認できない」、国賠訴訟の1・2審は「国が隠蔽してきたとは言えない」などとして、それぞれ19年末までに棄却された。
 しかし、判決は第五福竜丸以外のマグロ船員の被曝を認めた上で、国に救済策の検討を求めた。原告団は高齢化した被災者の救済を優先させて上告を断念。昨年3月、同協会と国を相手取って行政処分取り消しと損失補償を求める「ビキニ労災訴訟」を提起した。
 同訴訟は、被告が東京地裁への移送を求めたことなどで膠着状態ながら、同センターによる被災者調査は今も続けられている。
 
「死の灰」のレプリカ(第五福竜丸展示館所蔵)
36-s-3.jpg
 「ビキニ事件」は私にとって、記者生活で最大の思い出の1つだ。山下さんらの調査が始まって間もない85年6月30日の朝刊1面に「ビキニ“死の灰”犠牲者 久保山さん以外に2人」など4本見出しのトップ記事、2面に「魚価の暴落で漁船員の被曝がタブーとされた」の解説記事を載せた。
 情報源は連載の第1回で触れたUさんこと、梅原憲作さん(故人)。「高知空襲と戦災を記録する会」の事務局長で、高知市立高知商高定時制の社会科教員、県高校教組の役員でもあった。山下さんとも親しく、幡多ゼミ顧問の3人以外では唯一6月の室戸調査に同行し、同月の東京行きも山下さんとの2人旅だった。
 私は教育を担当して5年目、梅原さんとは頻繁に連絡を取り合っていた。4月末には2人の名を知らされ、室戸行きも事前に教わった。「朝日の記者にもちょっとしゃべった」と聞いた後は、対抗意識も芽生えた。第五福竜丸の被災が読売の特ダネだったせいもある。
 だが、特報の喜びはすぐ暗転した。「山下さんが頭を抱えている」と聞かされたからだ。記事で2人は実名だったものの、遺族には名前を公表する旨の了解をまだ取っておらず、梅原さんもそのことは知らなかったという。紙面にある山下さんの顔写真と談話は、彼が高知市に来たわずかな時間に取材しただけで、掲載日も知らせていなかった。
 電話で謝りこそすれ、しばらくは「これで調査を断られれば自分のせい」と気が気でなかった。1か月後に書いた高知新聞(7月30日夕刊)は、藤井さんを実名、谷脇さんをTさんとしていた。同紙が圧倒的なシェアを誇る高知県で、読売の部数はわずか1万部ほど。関係者の目に触れないようにと祈りつつ、ときどき梅原さんに経過を尋ねた。問題化しなかったのは幸運と言うしかない。
 当時の読売高知支局で、室戸市は室戸通信部、幡多は中村通信部の管轄だった。私は82年秋から教育と高知市政を掛け持ち、その後県政サブ担当も兼ねた。88年に大阪本社に異動し、転勤を重ねて94年に再び高知へ。98年からは本社で18年を過ごした。
 梅原さんはこの間「記録する会」の会長や県高齢者福祉生協の理事長を歴任、12年前に亡くなった。新人時代の79年秋に出会って意気投合し、大阪在勤中も何度となく高知を訪れて歓談したのが懐かしい。
 山下さんとは、大阪に移って1年が過ぎた99年4月、四万十川上流の西土佐村(現四万十市)で再会した。彼が退職後に廃校を利用して始めた自然体験宿泊施設「四万十楽舎」を月1回の全国向け特集記事で紹介するためで、その行動力には改めて目を見張った。

 ビキニ事件と再び出合ったのは、嘱託記者として高知に戻った2016年春。訴訟は司法担当記者の領分ながら、元漁船員らの証言集が出版されたこと、生徒減で活動を停止していた幡多ゼミが再出発したことなどを他社の記事で知ると、自然に体が動いた。
 18年12月には、同センター副代表の岡村啓佐さん(70)が証言集の一部を日英両語で紹介した写真集「NО NUKES(核はいらない)」を近く出版すること、翌年5月には、幡多ゼミが被災者支援のDVD教材「核被災と核兵器禁止条約」を作ったことを地方版のトップ記事にした。

 岡村さんは、幡多ゼミと藤井さん母子を結びつけた岡村利男さんの甥に当たる。94年から県内の広島・長崎被爆者の写真を撮り続け、99年にはビキニ被災者も加えた写真集「高知の被爆者」を出した。15年秋には長崎で被爆した土佐清水市在住の横山幸吉さん(91)を撮影に訪れ、偶然伯父の名を口にしたことで「自分は54年春にビキニでも被災した」と打ち明けられた。
 被爆者手帳を入手する時に尽力してもらったといい、横山さんは国賠訴訟の原告団にも加わった。幡多ゼミの再出発も、横山さんへの聞き取り調査がバネとなった。岡村さんは「伯父と自分が30年を隔てて、長崎とビキニの二重被曝者に出会ったのも何かの偶然」と新たな被災者の発掘に意欲を燃やす。
 幡多ゼミは、18年夏に広島で開かれた全国高校生平和集会に参加し、9月には旧ソ連時代に数百回の核実験が行われたカザフスタン出身の女子留学生を高知に招いてビキニ被災漁船員の証言を聞いた。19年夏には、10年前に四万十川上流の津賀ダム近くに建てた朝鮮人労働者慰霊碑の記念式典を地元で開き、韓国の高校生や教員も参加した。
(続く)

管理  

- Topics Board -