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2022/02/06
がん発症と大阪読売「連携協定」(下) ―高知から(10)―
<石塚直人(元読売新聞大阪本社記者)>
高知支局時代、沖縄の平和運動家を招いた講演会を地方版のコラムで取り上げ、「何人もの県民が日本兵に殺された」との発言を引用したが、翌日の紙面ではその部分がごっそり書き換えられていた。デスクを担当した支局長に尋ねると、驚いて送信記事を見せてくれた。赤ペンで一部は修正されていても、核心部分は原文通り。キーパンチャーが勝手に直す訳もなく、本社で記事を見た誰かが手を入れたとしか考えられない。92年から2年間の広島支局時代には、原爆担当の記者が明らかに他社も書く素材を除き、社会面より地方版への出稿を望むのに驚いた。社論を意識する本社デスクに没にされるより、地方版で確実に載せたいという。
2000年夏、がんで亡くなった黒田氏の葬儀が大阪本社近くで営まれた際、本社勤務だった私は「誰が参列するか、上層部がチェックしている」との噂に耳を疑った。真相は不明ながら、皆がそこまで神経質になること自体、まともな批判精神を備えた新聞社とは思えない。彼の訃報を読売はベタ(一段見出し)で報じ、他社が数段抜きで大扱いしたのとは対照的だった。
東京読売がとくに第2次安倍政権以降、自公政権べったりの報道を続け、森友問題ほか政権のスキャンダルの扱いが小さいこと、脱原発や沖縄の反基地運動をほぼ無視し続けていることは、今さら指摘するまでもない。
70年代頃まで、日本の新聞は「社論は社説で書き、報道は客観中立」が建前だったことも、年配の方はご存じだろう。社によって扱いの大小は違うにせよ、国民の議論を二分する問題については、社論に反する側のデモも報道した。それを社論優位の紙面に変え、「反原発の集会はうちでは載らない」などと多くの記者に諦めさせたのが渡邊氏。政権に近い人たちは歓迎したにせよ、「新聞を読めば社会のことがわかる」と単純に言えなくなったことは、新聞というメディア全体の信用を貶めたのも確かだ。
柴田社長は東京論説委員長からの着任で、渡邊氏との類似を感じさせる。橋下徹氏以来3代の維新知事が続いた府との連携は、大阪読売が東京の対自公政権同様、さらに維新に近づきその広報機関に堕する危険性が大きい、と断じざるを得ない。
昨年の衆院選で国会第3党に躍進した維新は、冷厳な新自由主義を掲げ、それを「改革」の名で大阪府・大阪市職員に徹底させてきた歴史を持つ。労組や人権運動を敵視し、学校教育にも優勝劣敗の論理を持ち込んだ。大企業と一体化した大規模開発に莫大な投資を行う一方、コロナ禍に困窮する人たちの救済には及び腰だ。
衆院選の直前に府の人口当たりコロナ死者が全国平均の2・4倍に達したのは、目先の利益にこだわって保健所を大幅に減らした維新府政・市政の失政が最大の理由。なのに批判が広がらなかったのは、在阪の大手メディアがろくに追及せず、テレビのワイドショーなどで吉本興業のタレントが吉村知事を繰り返し持ち上げたから、と言っていい。
衆院選後、維新の大勝を「前回の希望の党の51議席より少ない」と楽観視する声が、野党陣営からも聞かれた。しかし、私には「東京にいて維新の怖さを知らないから」としか思えない。地方議会を次々に勢力下に置き、議員を国政選挙にフル活用する。メディアを徹底して手なづける。そのパワーは他党を圧倒した。従来型の選挙運動で惨敗したのが、大阪の自民党であり立民、社民党だった。
その維新の全国展開は、民主主義そのものへの大きな脅威だ。比例代表の近畿ブロックでは、自民8議席を上回る10議席を占め、得票数では1・3倍、78万票差をつけた。小選挙区では議席をほぼ独占した大阪府以外、兵庫県の1議席しかなかったが、それでもこれだけ浸透し、他に全国5ブロックで複数議席を得た。甘く見てはなるまい。
維新の創設者・橋下徹氏が大阪府知事時代に作った条例に基づき、2012年春の卒業式に「君が代」斉唱を拒否した府立高校の先生17人が処分された事件を思い出す。社会部の記者が書いた解説は微温的で、私は後輩の社会部デスクに「良心の自由の何たるかを考えれば、処分はおかしい。もっと厳しく批判すべきだ」と注文した。彼の答えは「無理なんです」。
社説に「国旗国歌は国民に定着しており、卒業式は整然と行われるべき」とある以上、取材現場でもそれは意識せざるを得ないという。仮に私が自分の思う通り書いたら彼が書き直す、とも受け取れた。
もちろん、社論を頭から無視して、は不可能だ。でも、違和感があればそれを少しでも生かす努力をするのがジャーナリズム、記者の務めだろう。西欧合理主義哲学の祖とされるデカルト、さらにマルクスが説いた「すべてを疑え」こそ、批判精神の骨子のはずだ。
社説であれ上司の意向であれ、そこから一歩も出ない記者の「主体的判断」など、とてもその名に値しない。しかもその社説たるや、例えば沖縄・辺野古の新基地建設について「これしか選択肢はない」と現地に犠牲を強いるだけの代物ではないか。
私以上の年配者にとって、新聞記者のイメージは昔のテレビドラマ「事件記者」の主人公のような正義漢が1つの典型になりがちだ。でも、社会全体が保守化した今世紀、大半の記者もデスクもまず「会社員」。その背景には、戦後ずっと続いた自民党文教行政による「批判的な思考力を失わせ、大勢に順応させる」学校教育がある。かつての同僚や後輩をみても、とくに社会科学的な素養のなさを感じる。
2010年1月、世界的な学者を招いた都市社会学の国際シンポジウムが大阪市立大学で開かれ、当時配信部次長だった私は、大学教員の知人に誘われ取材した。ふだん大学取材を担当している訳ではなく、他社の記者がいたかどうかは不明(記事は出なかった)。
米英中などの研究者6人が世界の75都市を対象に、世界的な企業が進出を望む度合いを点数化した最新データ(東京は3位、大阪はシンガポール、香港、ソウルなどに次いで国内2位の19位)と研究リーダーの米大学教授のコメント、大阪市周縁部の同和地区で雇用の不安定化が一般地区より顕著だとの大阪市立大社会学教室の調査報告を合わせて記事にした。
事前に社会部、文化部のデスクに打診すると、社会面にも文化面にもそれだけのスペースはないという。2人いる社会部府下版デスクの若手に頼み、「長過ぎるから」と前半部分だけが12日に大阪府下版に掲載された。しかし同和地区の貧困が絡む後段は、最初の「時期を見て必ず」との約束を引き継いだベテランデスクに修正記事を出しても「もう少し待ってください」の繰り返し。何度交渉しても話が進まず、間もなく彼自身が他県の支局長として転出した。
同和地区の話題がデリケートなことは、とくに西日本在住の記者なら誰でも知っていよう。しかし、そこに住む人たちの人権問題は、避けて通れない課題のはずだ。私は彼のふだんの真摯な仕事ぶりを知る一方で、掲載すれば周囲の誰かに「こんなものを」と非難される可能性も感じていた。上司の多くが事なかれ主義、は身にしみていたからだ。柴田社長の自信に満ちた断言を、疑わざるを得ない所以である。
読売に限らず、新聞社はどこも読者離れに苦しみ、人員削減と新たな収益源の確保に追われている。「連携協定」が魅力的なのはわかる。それでも、他社があえてそれをしなかったのは、権力のチェックというジャーナリズムの大原則を守ってきたからだ。最大部数を有する新聞社の「抜け駆け」は、他社が雪崩を打って追随するきっかけともなりかねない。まさしく「戦争前夜」の風景と重なる。
私自身、大阪読売で多くの先輩、同僚にお世話になった。育ててもらったと言ってもいい。本来は感謝すべき会社に、と思いつつ、元記者としての遺言?がこうなるのは寂しい。
(文中の数値などは、読売新聞グループ本社など読売各社の刊行物を参照した。渡邊氏、黒田氏の事績については、魚住昭「渡邉恒雄 メディアと権力」講談社、有須和也「黒田清 記者魂は死なず」河出書房新社などが参考になる)
2022/02/03
がん発症と大阪読売「連携協定」(上) ―高知から(10)―
<石塚直人(元読売新聞大阪本社記者)>
昨年10月に「高知から(9)」を掲載してから、早くも3か月半が過ぎた。これまで2か月に1度は更新してきただけに、読者の皆様の中には「もう息切れしたのか」と疑問を持たれた方もおられるのではないだろうか。
実は11月半ばから体調がおかしくなり、続編がなかなか進まない中、年明け早々に大腸がんで緊急手術を受けた。ステージ4ですでに肝臓にも転移しており、次は抗がん剤治療だという。1月14日に退院した後も、自宅で寝たきりに近い状態が続いている。
この間、自分なりにがんについて調べ、今後の闘病生活のイメージもできつつあった。しかし24日に病院を再訪したところ、執刀医から「大腸がんのほとんどは腺がんで、自分もそう思っていたが、検査の結果、神経内分泌がんと判明した」と聞かされた。
摘出手術の経過は良く、1週間で退院できたものの、摘出部の詳しい検査に時間がかかり、退院時には彼もその結果を知らなかったのだ。このがんは何万人の患者のうち1人というほど極めて珍しく、治療データが少ない。しかも血液とともに全身を巡っているため、治ったと思っても再発することが多い、という。
31日には、抗がん剤治療の主治医が「このがんは根絶不可能。薬剤の副作用が強く、しかも患者の半数は1年以内に亡くなる」と言い切った。のんびり屋の私が「でも、余命3か月と言われて何年も生きる人もいますね」と返すと、彼は「それは全くの偶然。医者の間では、その診断は誤診だったと考えるのが普通」と答え、考えられる2通りの薬剤の組み合わせについて詳しく説明。私が選んだ処方で、今月4日から治療が始まる。
この間メディア界では、私が40年勤めた読売新聞大阪本社が12月27日に大阪府と結んだ「包括連携協定」が注目され、多くのジャーナリストが抗議の声を上げた。私はつい先日まで、体調が戻るのを待って書きかけの原稿を仕上げるつもりだったが、それでは完成がいつになるのか、見当もつかない。方針を変え、急きょこの問題について書くことにした。高知の事象から離れる点はお許しいただきたい。
この協定については、「仲間から」コーナーに日本ジャーナリスト会議(JCJ)の抗議声明が掲載されている。「府民サービスの向上、府域の成長・発展を図る」ため、教育・人材育成、情報発信、安全・安心、子ども・福祉、地域活性化、産業振興・雇用、健康、環境など8分野で連携を進めるとのこと。府はこれまで50を超える企業や大学と同協定を結んでいるが、報道機関とは初めて。
JCJは「ジャーナリズムの役割は権力の暴走をチェックすること。公権力と対峙し、十分な距離感を保つことが求められる」とし、国内最大の発行部数を誇る読売新聞の協定を「ジャーナリズムの役割を放棄した自殺行為」と断じた。ジャーナリスト有志の会が取り組んだネット署名は、1月末までに5万人を超えた。
協定締結日に会見した読売新聞大阪本社の柴田岳社長は「大阪府としては読売新聞に取材、報道、情報に関して特別扱いは一切ない。読売新聞も取材報道の制限は一切受けない」と強調した。しかし、文書では「情報発信」について、生活情報紙「読売ファミリー」ほかの媒体やSNSなどで府の情報発信に協力するとし、「地域活性化」では3年後の大阪万博開催に向けた協力も盛り込んだ。万博会場となる人工島・夢洲では、維新の府・市政がカジノを中核とする統合型リゾート(IR)の誘致を目指している。これらに対する批判的な報道がどれだけできるのか、疑問は大きい。
私は協定締結の翌28日、元NHK記者で今は調査報道とファクトチェックを手がける「InFact」編集長・立岩陽一郎氏のヤフー記事でその概要を知った。記事によれば、会見で報道の自己規制について質問した同氏に対し、柴田社長は「お久しぶり」と声をかけた後、「懸念を持たれるのはよくわかる。しかし、読売新聞はそうそうやわな会社ではない」と述べ、府の施策についても「主体的に判断して書く姿勢は一切変わらない」と断言した。
根拠として読売の「記者行動規範」を挙げ、「取材報道にあたって社外の第三者の指示を受けてはならない。また特定の個人、団体の宣伝や利益のために事実を曲げて報道してはならない」と説明。万博についても「問題点はきちんと指摘し、是々非々を貫く」と述べた。
記事は他の記者による質問と柴田社長、吉村知事の答弁も紹介している。両氏は協定についての協議が昨年春から始まったことを明かし、吉村知事は「取材・報道とは関係がない。行政が監視される立場にあることは変わらない」。柴田社長は「新聞社は報道・取材する一方で、地域社会や読者の皆さんに支えられている。大阪を良いところにする、皆さんに活字文化に親しんで頂くため、我々にもやることがある」とその理由を語った。
「記者が萎縮しないとどうして言えるのか」の質問には「委縮しないのか?と言われれば、『委縮しないでしょう』としか言いようがない。どういう報道をするかというのは私以下、編集権を持っている上司の者たち、或いは一人一人の記者が・・・そんな簡単に忖度していうこと聞く記者ばかりじゃありませんから。きっちりと厳しい目で事実に基づいて報道していくことになる」と答えている。
ただ、残念ながらこれは建前論に過ぎない、というのが、1979年4月から2019年12月まで同社で働いた私の実感だ。とくに東京本社で渡邊恒雄氏(現読売新聞グループ本社代表取締役主筆)が取締役論説委員長に就任(79年6月)してから91年に社長となる間に、大阪本社の自由な紙面づくりは姿を消した。渡邊氏主導で改憲を軸に保守化を強める東京の論調を、そのまま踏襲するようになったからだ。
読売新聞は1874年に東京で創刊、戦前に正力松太郎氏が買収して急成長したが、全国紙としての発展は、1952年の大阪進出が起点となる。関西が本拠だった朝日・毎日の妨害を恐れて隠密裏に「大阪読売新聞社」を設立、記者経験者を集めて設立50日余で第1号を発刊した。前年まで10年近く200万部弱だった全国部数は順調に伸び、63年には朝毎と肩を並べ、77年には朝日を抜いて部数日本一(746万部)となった。
当時の大阪本社は、地元採用1期生だった黒田清氏が76年に社会部長となり、大阪庶民の感覚にこだわった大胆な紙面づくりが注目を集めた。
編集局長ら幹部の戦争体験の紹介から始まった長期連載「戦争」は、心斎橋大丸百貨店に毎年社会部記者が常駐しての展覧会に発展。交通事故で亡くなった少年の遺族の手記を全文紹介して事故防止の世論を高め、部落差別に苦しむ女性を励ます手紙を部長名で載せたこともある。
大阪外大(現大阪大外国語学部)の学生だった私は、子ども時代から朝日しか読んだことがなかったが、学内で作ったメディア企業向け勉強会の友人から黒田氏の名を教わり、興味を持った。77年秋の就職試験で朝日に落ちた後、大阪読売を受験して補欠となり、翌年合格して79年春に入社した。
朝日も毎日も東京、大阪、西部の3本社制ながら、朝毎の大阪本社は近畿と中四国をエリアに独自の紙面を作りはしても、人事異動は全国共通。これに対し、読売の東京と大阪は別の会社であり、大阪で採用されれば異動も原則として域内となる。政治部や外報部(国際部)のない大阪は、どうしても社会部が紙面を支配しがちだ。
朝刊・夕刊の締め切り時刻も、出稿部門と印刷部数が格段に多い東京が最も早い。大阪での紙面制作は、地元にアピールするため、とくに1面に東京発でなく管内発の記事をどれだけ盛り込むかがポイントとなる。入社当時の大阪読売紙面は、読売と言うより大阪新聞とでも呼びたいような雰囲気を漂わせていた。
それが変わり始めたのは、読者とキャッチボールしながら戦争反対や差別反対を訴える紙面が東京から「同じ読売なのに」と批判されたからだ。黒田氏は84年、社会部長を解かれて編集局次長専任となり、執筆の場はコラムに限定。かつての「黒田軍団」も解体され、氏は87年に退社した。
大阪の歴代社長はもともと東京本社の幹部が交代で務めてきたのに加え、編集局幹部も東京との人事交流が進んだ。かつて幹部だった先輩記者は「昔は国政選挙後の政治部長論文を『あまり面白くない』と2面に回したこともあった。今は東京の言いなり」と嘆く。
88年春まで高知支局員だった私にとって、黒田氏は入社試験の面接で言葉を交わした程度の記憶しかない。僻遠支局の記者として、大阪の話題ばかり目立つ紙面をうとましく思ったことさえある。しかし、彼の独特の風貌と個性的な文章には好感を持った。退社後に始めた「黒田ジャーナル」などの仕事にも注目した。
一方で84年頃から、東京の社論に合わない記事への締め付けが強まった。私自身がそれを何度も体験した。
<続く>
2021/10/14
今こそ政権交代を(上) ―高知から(9)―
<この記事は3部に渡っています。読みやすいように掲載時系列ではなく、上から(上・中・下)と並んでいます>
<石塚直人(元読売新聞記者)>
10月31日投開票の第49回衆議院選挙まで、あと半月と迫った。高知では自民党総裁選さなかの9月20日、市民団体と護憲派野党4党が「合意確認書」に調印し、小選挙区は立憲民主党が擁立する2人の前職国会議員を野党統一候補として戦う。分厚い保守の地盤ながら、やはり野党共闘で臨んだ前回は高知2区(県西部)で自民前職を破っており、陣営の意気は高い。この年夏、安倍政権が成立を目指した安保関連法案に対し「平和憲法を蹂躙する暴挙」だとする抗議行動が全国で広がり、国会前には最多で約10万人が集まった。しかし安倍政権は9月19日、数の力で法案を強行採決。一方、歯止めとなるべき野党間の選挙協力協議は足踏みしていた。
市民連合は「立憲デモクラシーの会」など各団体の代表らが、市民の力で野党共闘を後押ししようと同年12月に結成。翌16年7月の参院選では、32の1人区すべてで野党統一候補を擁立する原動力となり、11議席を得た(比例代表では4野党で44議席)。以来、国政選挙の度に立憲野党と政策で合意、応援してきた。
「憲法アクション」の歩みは、市民連合とほぼ重なり合う。特定秘密保護法案が強行採決された13年に大学教員や弁護士ら7人が結成した「国民主権を守り、憲法を暮らしに活かす懇談会」(憲法懇談会)を母体に、宗教者や農業者、企業経営者、市民運動家を含む約60人が呼びかけ人となって護憲平和や脱原発の集会をいくつも開催。今も安保関連法成立日の毎月19日、高知市内で抗議行動を続けている。
国政選挙を巡っては、15年11月に県内野党に向けて「戦争法廃止、安倍政権の退陣を求める野党共闘」の実現を求めるアピールを発表して以来、節目ごとに候補者の一本化を申し入れ、関係各党と共闘してきた。
翌16年7月の参院選は、1人区が初めて徳島・高知両県の「合区」となり、徳島の弁護士(民主党)を同県の市民団体とともに両県の野党統一候補としたが、徳島の自民候補に6万2907票差で敗れた。それでも高知市内に設けた共同選挙事務所には、政治に縁遠かった女性や学生らも訪れ、県内に限れば7031票まで差を縮めた。高知市では逆に4144票上回った。
翌17年10月の衆院選・小選挙区では、高知1区(県東部)と2区で民進、共産両党が早々と公認候補を擁立したのに対し、4月に「統一候補に求める政策」23項目を発表して一本化を申し入れた。この23項目自体、参院選で初めて選挙運動に取り組んだ女性有志や学生を交えて4回の議論を重ねた成果だ。
1区は中谷氏が8万1675票で圧勝したものの、2区は広田氏が9万2179票と山本氏に2万1170票差をつけ、17年続いた県内小選挙区の自民独占に終止符を打った。比例四国ブロック(定数6)では、結党直後の立民から立った武内則男氏(元参院議員)が5位当選、小選挙区で敗れた山本氏も6位で復活当選した。
広田氏は自民党県連会長も務めた父を継いで95年に同党の県議となり、04年に無所属で参院議員に当選、09年に民主党入りした。保守層にも人気があり、希望と立民の要請を断って比例復活のない無所属で立候補した潔さも評価された。
19年7月の参院選徳島・高知選挙区は4人が立候補したが、事実上は自民・高野光二郎氏(農水政務官、公明推薦)と野党統一候補・松本氏(立民・共産・国民・社民・新社会推薦)の対決。松本氏は20万1820票を得、敗れたものの5万2063票差まで肉薄した。両氏はともに高知が地盤で、高知県内の得票差は2万票足らずだった。
比例代表を含めて各候補と各党の県内得票を見ると、高野氏の13万7473票は自民と公明の合計13万7262票にほぼ等しい。一方、松本氏の11万8188票は共産の4万854票はもちろん、立民・国民・社民を加えた9万6378票より約23%多く、共闘による効果を示した。
高知の野党統一は同年11月の知事選でも実現した。3期12年を務めた尾崎正直知事が国政に転身するとして県出身の元大阪府副知事・浜田省司氏を後継指名し、自民・公明が推薦したのに対し、「憲法アクション」の仲立ちで立民・国民・共産・社民・新社会が松本氏を推薦して対抗、11万1397票を集めたものの6万2361票差で敗れた。
県出身のエリート財務官僚として自民、民主、公明、社民に推され、2・3期目は無投票当選の尾崎氏が支援する浜田氏と、まだ30代で行政経験のない松本氏。勝敗は最初から明らかだったが、選挙戦では50人を超える国会議員が応援に訪れ、志位和夫(共産)枝野幸男(立民)両党首も並んで演説した。松本氏が参院選とほぼ同数の票を得たことは、「市民と野党の共闘」が着実に進化したことを裏付けた。
これに先立つ同年4月の県議選では、「憲法アクション」が立民・共産・無所属の16人を推薦候補とし、立民・共産の新人を含む10人を当選させている。
2021/10/14
今こそ政権交代を(中) ―高知から(9)―
<石塚直人(元読売新聞記者)>
憲法アクションの呼びかけ人でもある岡田健一郎・高知大准教授(憲法学)は、こうした進化の背景を「1989年の総評分裂後も、高知では労働運動や平和運動の中で一定の人間関係が残り、これに脱原発などの課題に取り組む市民が参加して政党・労組と市民の関係が深まっていった」とする。さらに福島原発事故の翌12年に生まれた「原発をなくし、自然エネルギーを推進する県民連絡会」は、連載6で触れた「グリーン市民ネットワーク高知」など複数の市民団体が両団体とともに加わった。これまで政治活動に無縁だった市民と政党・労組が「脱原発」でともに活動した体験は、両者間の垣根を下げ、さらに市民参加を広げた。それが憲法アクションにつながった。
緩やかな個人の集まりで共同代表制を取る憲法アクションは、今も両平和団体が連絡先として名を連ねる。最初は呼びかけ人会議だけで運営していたが、人数が多すぎるので5人前後の事務局会議を設け、呼びかけ人会議で大きな方針を決めた後はこちらで細部を詰めるスタイルが定着した。
事務局会議は民主・共産両党の主要支援団体幹部で構成、事務局長は置かず対等の関係を重視している。声明文をまとめるなど事実上、対外的な窓口役を果たしてきたのは、県平和運動センター議長を長く務めた山崎秀一さん(64)=現顧問=。土佐高、早稲田大法学部を出て県職員となり、県職労の委員長も歴任した。
労働運動に入ったのは、中学1年で浅間山荘事件が起きるなどし、以来日本社会や新左翼運動について自分なりに考えたのが原点だという。高度経済成長下でも弱者の側に立ちたいと願う一方で、大学時代は新左翼・革マル派、共産党系・民主青年同盟の双方からの参加要請を断った。「全共闘の主張は理解できるが、やったことは失敗だった」。暴力革命を否定し、民主主義の徹底による社会主義を目指した。
20歳代から県職労の役員となり、他の組合と協力して未組織労働者の組織化や市民運動との連帯を模索。国鉄(現JR)を不当解雇された労働者の支援にはとくに力を注いだ。ビートルズのファンでもあり、J・レノン同様キューバ革命の英雄チェ・ゲバラに憧れ、墓参のためキューバを訪れたこともある。「政党は自分たちの要求を実現する手段であり、政党のために個人がある訳ではない」が持論で、今は共闘維持のため、最も党員の少ない新社会に籍を置く。
ただ、総評の分裂と前後して社共両党が互いに非難し合う時期が続いたことで、今も旧社会党系の活動家には共産党への拒否感が強い。反基地闘争の一点で保革がまとまった「オール沖縄」を高知でも、と強調する山崎さんに「お前はいつから共産党になった?」と怒りをぶつける人もいた。
山崎さんによれば、軍事化連絡会の結成話は平和委員会側から持ち込まれた。同委の事務局長だった和田忠明さんは、社会党系が主流だった高知県交通労組の少数派で、平和運動の傍ら「野党がバラバラでは自公に勝てない」と繰り返していた。国鉄の争議支援で山崎さんと何度も顔を合わせ、「彼となら話ができる、と思ってくれたのでは」と振り返る。
四国山地と太平洋に挟まれた地勢からか、維新の会などは浸透しなかった。19年の比例代表での得票は自民が9万6408票で最も多く、公明の4万854票、共産の4万391票がほぼ拮抗。立民は3万2136票、国民は1万7492票。日本維新の会は1万2488票で、やはり県組織のないれいわ新選組より599票多いだけ。国民はその後、議員不在となり、県連が解散した。
共産党の強さは際立っている。初めて小選挙区比例代表並立制で行われた96年の衆院選では、カリスマ的な人気を誇った山原健二郎氏(04年没)が当時の高知1区(高知市の大半。13年の定数減で県内の1~3区が1・2区に再編された)で中選挙区時代から連続10回目の当選を果たし、比例候補だった春名直章氏(現党県委員長)も初議席を得た。その後国会議員は出ていないが、今も県政を左右する力を持つ。
19年参院選の比例代表得票率は15・12%で京都府に次ぎ、全国平均の8・95%を大きくしのぐ。同じ四国の香川・愛媛両県は5%台、徳島県も8%台だ。県議会と高知市議会でも、会派別ではそれぞれ2位の5人、7人を擁している。
4年ぶりとなった衆院選で、小選挙区は計6人が名乗りを上げている。高知1区は自民前職の中谷氏と立民前職の武内氏、高知2区は立民前職の広田氏と自民公認の新人で前知事・尾崎氏の対決が焦点だ。
1区の中谷氏は連続10期当選。陸上自衛官出身で防衛庁長官、安保関連法成立時の防衛相を歴任する一方、安倍政権下で首相に何度も公正で謙虚な姿勢を説いた「良識派」の側面も持つ。
2区の尾崎氏は40歳の若さで知事となり、強いリーダーシップで県民所得の向上や健康長寿県づくり、防災対策などに成果を挙げた。19年8月に4選不出馬と国政挑戦を発表するまで、共産を含む県議会の全会派と融和関係にあり、地元紙の世論調査による「県政への満足度」は退任直前で89・6%に達した。農水相時代にTPP(環太平洋経済連携協定)参加をめぐり「二枚舌」の批判を受けた山本氏と比べ、広田氏にとって強敵であることは間違いない。
2021/10/14
今こそ政権交代を(下) ―高知から(9)―
「合意確認書」に盛られた政策は、全国レベルの「憲法に基づく政治の回復」「格差と貧困の是正」など6テーマ20項目を基本に、県独自のテーマ「くらしに豊かな土台を―生きる価値を実感できる県政の実現」を加えた計32項目。県政課題では中山間地の住民を支える農業や福祉の充実、自然エネルギーの確立と地産地消などをうたい、全国課題でも米軍機の低空飛行訓練の中止、消費税率の「5%」への引き下げなどを加えている。
調印式では、憲法アクションの共同代表のひとり青木宏治・高知大名誉教授が「次期衆院選では自公政権に代わる新しい政治の実現のため、比例も含めて野党の過半数を目指す」とあいさつ、各野党に政策の実現を求めた。
続いて武内氏と広田氏、立民・共産・社民・新社会の代表と「憲法アクション」共同代表が確認書に署名。山崎さんは報道陣に「中央レベルの合意は市民連合の案を各党が認めたものだが、高知では互いに相談しながらまとめた」とこれまでの蓄積を説明した。
党の国対委員長代理と県連代表を兼ねる武内氏は「戦争のできる国を作り、公文書改竄などで行政をゆがめた自公政権を変えるのが私たちの責任」、やはり国対委員長代理で元防衛政務官の広田氏は「私の宝である自衛隊の皆さんに、憲法違反の政治で命を賭けさせてはならない。食料自給率が37%まで落ちた今、農林水産業や中小事業者への支援が必要だ」と決意を述べた。
支援に回る3党の代表は「自民党総裁選はおちょこの中のさざ波。比例の女性候補も含め頑張り抜く」(共産)、「私たちは16年の参院選以来、信頼関係を築いてきた。勝利に向け全力を尽くす」(社民)、「憲法アクションの皆さんに敬意を表する。これは新自由主義と歴史修正主義を止める闘いだ」(新社会)。立民の県連副代表も「皆の力で政権交代を」と力を込めた。
記者会見では、武内・広田両氏の所信と各党の具体的な支援策が問われた。小選挙区候補の擁立断念について、共産の春名県委員長は「初めての重い決断」とした上で「素晴らしい現職議員が存分の活躍をされており、私たちが出ていく段階ではない。過去4回の共闘体験を生かし、厳しい条件を乗り越えて比例の議席を得たい」。武内氏も比例を念頭に「四国で野党の議席を増やすことに全力を挙げる、ということ」と言葉を添えた。
とくに参院議員2期目の13年参院選で敗れた後、全国的な立民ブームに乗って比例復活を果たした武内氏は、手足となる地方議員や党員が少ない。私が住む香美市では8月に「政権交代をめざす香美市民の会」が発足したが、立民の市議はおらず、街頭演説やビラ配りなどは共産の市議(5人)らが全面支援する。父から地盤を引き継いだ広田氏は強固な後援会を軸に国政選挙で3勝1敗ながら、ともに「共闘」なくして当選は望めない。
共闘効果を高めるため、とくに1区は小選挙区と比例の個人演説会を合同で行い、四国の衆院議員17人全員が男性であることから「女性議員を」と白川氏の当選をアピールする。2区は地域によって共産嫌いの支援者もおり、個別に調整する。立民・共産の党首級のほか、元知事の橋本大二郎氏も応援に来る。
明るい材料は、9月に高岡郡東区(3町村)で行われた県議補選だ。無所属の県商工会青年部連合会長(43)と共産公認の元小学校女性教員(67)の対決は、共産候補が3927票を獲得、1171票差まで迫った。事実上の野党共闘とはいえ、共産候補の得票率43・5%はこの地区で空前の数字。目先の利益より大義を優先させる英断が、自公政権に不信感を強める有権者の共産アレルギーを払拭させた。
菅首相の突然の退陣表明を受け、自民党総裁・第100代首相となった岸田文雄氏。「私の特技は人の話をよく聞くこと」「新しい資本主義」の自信とは裏腹に、所信表明演説は党内でハト派とされてきた宏池会の流れを封印、安倍元首相らの強い影響をうかがわせた。疑惑まみれの甘利明氏を幹事長に据え、森友・加計問題などの再調査も否定した。
第2次安倍政権以降の9年間で、政治の劣化は極限に達した。首相のウソを隠すために公文書が改竄され、改竄を命じて部下を自死させた上司が昇進する。野党の追及は「ご飯論法」でやり過ごし、世論の沈黙を待つ。それでいて一部の富裕層が巨額の富を貯え、国民の平均賃金は先進国で唯一下がった。コロナ禍では、貧困にあえぐ人の自死や入院できない患者が続出した。
国会代表質問での答弁、さらに自民党の政権公約でも、安倍・菅政権の「負の遺産」を転換させる意気込みは感じられない。総裁選で言及した金融所得課税の強化は姿を消し、改憲や軍拡への踏み込みばかりが目立っている。
首相が代わっても自民が変わらない以上、政権交代が必要だ。今の野党は頼りないと私も思うが、仮に与野党の議席差が「今の半分」なら、与党も緊張して謙虚になるだろう。4割の得票率で6割の議席を得る現行制度のゆがみに加え、採決に持ち込みさえすれば何でも通る現状が、与党議員を堕落させた。
これまで「何となく」自民・公明に投票してきた方、「何も変わらない」と棄権してきた方にお願いしたい。今回だけは別の党、候補に入れてほしい。安倍氏のように国会で118回もウソをつくこと自体、主権者のあなたや私ををなめている。
全国的に小選挙区候補の一本化作業が難航しているのは、やはり野党第1党の立民の責任が大きい。本気で政権交代を望むなら、高知の共産のように「譲る」ことも必要だ。現状では「自民と同じレベルの政治家ばかり」と誤解される。戦前と見まがうばかりの反共主義を盾に野党共闘を拒む連合に「こちらから願い下げ」くらいの啖呵を切って初めて、低迷する支持率も上がるのではあるまいか。