2020/11/20
唐十郎さん作の芝居「唐版 犬狼都市」下北沢の空き地で新宿梁山泊が上演
11月22日まで

明珍美紀
明珍美紀
 作家、澁澤龍彦さん(1928~87年)の短編小説をモチーフにした、劇作家、唐十郎さんの戯曲「唐版 犬狼(けんろう)都市」が、東京都世田谷区の下北沢駅近くの線路跡地(下北線路街)に特設されたテントで上演されている。高度経済成長期が終焉を迎える70年代末に唐さんが描いた奇想天外な世界を、劇団「新宿梁山泊」が、現代によみがえらせた。
 澁澤さんの原作は、少女とオオカミが愛を紡ぐ幻想的なストーリーだ。唐さんは、物語の舞台を「大田区の地下には犬田区という犬の王国があり、地下鉄とつながっている」という設定にした。唐さんが主宰していた状況劇場が、新宿駅西口の空き地に建てた「紅テント」で79年に初演された。
 「テント幕が切って下ろされた時、いきなり佇立(ちょりつ)する高層ビル群が視界に飛び込んできた。テントの客席で仰ぎ見るそれは、民衆と権力の関係を一瞬のうちに可視化した。資本主義の象徴たるビル群が、テントのフレームにすっぽりと収められたのだ。その光景は、さながら地べたにはいつくばった人々が果敢に挑みがかる冒険に見え、実に愉快だった」と、演劇評論家の西堂行人さんは初演当時を振り返る(新宿梁山泊のチラシより)。
 同劇団代表の金守珍(キム・スジン)さん(65)は、「飛躍と省略が多い唐さんの作品の中でも難解な芝居」と話す。
 テントや小劇場で行われるアンダーグランドの演劇は、権力への抵抗、抑圧からの解放など、自由を希求する役者、観客、双方の気持ちが混ざり合う。
 新型コロナウイルス禍で演劇を取り巻く状況は厳しいが、唐さんたちが築いたアングラの精神は、脈々と続いている。
 11月22日まで。午後7時開演。当日5,000円。ウイルス対策など詳細は同劇団(03-3385-7971)。
2020/11/05
自由は土佐の山間から(上)     ―高知から(3)―
<この記事は3部に渡っています。読みやすいように掲載時系列ではなく、上から(上・中・下)と並んでいます>

石塚直人(元読売新聞記者)

 高知市立自由民権記念館(同市桟橋通4)が今年、開館30周年を迎え、10月10日に館内で記念式典が開かれた。この日は、日本で初めて女性参政権を要求した楠瀬喜多(1836~1920)の没後100年にちなむ企画展「民権ばあさんと女性参政権」の初日でもあり、さらに館建設の原動力となった市民団体による記念講演会も行われた。
高知市立自由民権記念館(全景)
 記念館は、高知市制百周年(1989年)の記念事業として翌90年4月にオープンした。背景には、自由民権運動の出発点となった1874(明治7)年の民選議院設立建白書に署名した8人のうち4人が土佐の出身で、この年誕生した「立志社」が全国の運動をリードしたこと、著名な民権政治家や思想家を輩出したことへの強い自負がある。
 高知城のお堀を挟んで建つ県庁と高知市役所から3~4キロ内で、民権関係の史跡が数十に上るのは、まさに壮観と言える。生誕地碑だけでも板垣退助、後藤象二郎、片岡健吉、馬場辰猪、中江兆民、植木枝盛。政談演説会や学習会、出版活動などで運動を支えた民権結社の跡も、立志社を含め数多い。
市制施行時、高知市は初代・一圓正興市長ら三役、30人の議員のすべてを民権派が占めたという。戦後も1951年から94年まで、県都としては全国最長の革新市政(社会党、共産党)が続いていた。

 民権の歴史への誇りは、保守層にも共通する。全国各地で「自由民権百年」の記念事業が相次いだ81年、高知県は自民党知事の下で実行委を設立、県市の予算で企画展や講演会を催した。行事の大半が民間研究団体主催だった他の都道府県とは対照的だ。
 翌82年には、高知市の文化行政研究委員会が、自由民権記念館の建設を含む答申をまとめた。83年2月には、歴史研究者らによる記念館建設期成会が発足した。
 期成会は「民権運動の業績を受け継ぎ現代に生かすことは県民の義務」などとする趣意書を発表。記念館の具体的な構想を市に提案する一方、民権ゆかりの史跡めぐり、枝盛の命日にちなむ「無天忌」の開催などを手がけた。高知市の諮問機関が「自由民権・坂本龍馬記念館」の建設を提言すると、明治専制政府の打倒を目指した民権運動と龍馬は別だとして、反対の論陣を張った(91年に同市桂浜で県立坂本龍馬記念館が開館)。
 これらを受け、高知市も市制百周年記念事業の検討委員会を設けて記念館の建設準備に着手。87年11月には自由民権百年の第3回全国集会が同市で開かれ、機運を盛り上げた。初代館長には、期成会の副会長だった関田英里・前高知大学長が就任した。

 電車通りに面した2階建ての記念館は、屋根の上にかがり火を模した4つの尖塔がそびえる。自由民権運動がここから全国に広がったことを暗喩し、スタッフは「自由のともしび」と呼びならわす。
中央部は奥まで見通せるガラス屋根のアトリウム。左右の1階は市民向けの企画展示室や視聴覚ホール、郷土情報室など、2階は常設展示室や収蔵庫となっている。
 常設展示室では、民選議院設立の建言から立志社の設立、日本初の政党「自由党」の結成・解党、租税軽減などを求めた87年の「三大事件建白運動」を経て、明治憲法の施行や92年の選挙大干渉への抵抗に至る民権運動の流れを紹介する。枝盛が81年に起草した「東洋大日本国々憲案」などが現憲法に生かされたことにも触れている。
 展示物は、民権派の手になる請願書や新聞、退助を襲った刺客が使った短刀など。三大事件建白書に記された「生きて奴隷の民たらんよりは死して自由の鬼たらん」などの叫びが、当時の熱気を伝える。2011年には、枝盛の旧宅から書斎が移設された。

館の入口にある「自由は土佐の山間より」の石板
 建物の正面左には「自由は土佐の山間より」と刻んだ石板がある。原文はこの後「発したり」と続き、枝盛が1877(明治10)年に「海南新誌」創刊号に書いたとされる。以来、土佐の自由民権運動の合言葉となってきた。
 「~山間より」は2000年、開館後に期成会を改組した「高知市立自由民権記念館友の会」を軸とする県民の請願により「県詞」となった。都道府県のシンボルとして花や鳥は多いが、言葉は全国で初めて。友の会は以来、県議会で請願が採択された10月13日前後の土曜日に毎年「県詞の日」記念講演会を開いている。今年は10日、「五日市憲法」の発見で知られる新井勝紘・元専修大教授を招いた。
(続く)
2020/11/05
自由は土佐の山間より(中)     ―高知から(3)―
石塚直人(元読売新聞記者)

 高知市立自由民権記念館で開催中の企画展「民権ばあさんと女性参政権」(11月29日まで)は、明治期に区会議員選挙の投票を拒否され、県庁に抗議文を出した楠瀬喜多と、彼女に続く女性たちの歩みがテーマだ。
学芸員の案内で展示に見入る人たち(10月10日)
 喜多は現在の高知市唐人町に生まれ、土佐藩士に嫁いだが、夫が病没して38歳で戸主となった。以来4年間税金を払ったのに区会議員選挙で投票できず、抗議のため滞納。何度も督促され、1878(明治11)9月「議員を選ぶ権利がないのに納税の義務は納得できない。男女同権なら納めるので、同権かどうか回答を」との文書を県庁に送った。
 県は「権利の大小に関係なく納税は義務」と回答したが、翌年1月に「大坂日報」が経過を報じ、「東京日日新聞」などが転載したことで、その名前は全国に知られた。
 喜多の男女同権思想は、立志社の演説会に「寒暑風雨をも厭わず」参加したことで培われたという。立志社の演説会には当初から「女席」が用意され、77年10月には拡張の要望が出ていた。熱心な女性はかなりいたらしい。
 彼女は全国から集まる民権活動家に自宅を宿として開放し、多くの若者に慕われた。福島県出身で後に衆院議長となる河野広中、孫文を支援したアジア主義の大立者・頭山満らが代表格で、彼女の甥は広中の長女と結婚している。晩年は視覚・聴覚障害児学校のための募金活動に奔走、87歳まで生きた。

 喜多の闘いは2年後に結実する。土佐郡上街町会(現高知市上町)が80年6月、女性の参政権を認める規則を作った。県令(知事)は元に戻すよう指示したが、町会は坂本龍馬の甥の民権家・坂本南海男(後の直寛)らの助力で3度にわたりその理由を示すよう訴え、9月に県令が方針を撤回した。
 この快挙は隣の小高坂村会にも波及し、両町村では84年の「区町村会法」改正で区町村の規則制定権が奪われるまで、女性も投票ができた。「男子にして婦女に投票し婦女もまた男子に投票したるもの少なからず」との新聞記事が残っている。

 枝盛は81年、高知新聞に「男女同権は海南の某一隅より始まる」を書いて両町村を絶賛した。85年から87年にかけ、立志社の機関紙・土陽新聞に女性解放や戸主制度の廃止を訴える論説を次々と発表、女性たちの権利意識を目覚めさせた。
 全国の民権結社には多くの女性が加わった。男性に交じり各地で演壇に立った岸田俊子(神奈川県)、岡山県出身で90年から「女学雑誌」記者や主筆を務めた清水豊子。高知では、82年に高知女子師範学校を首席で卒業し運動に加わった山崎竹、助産婦として自立しながら演説や投稿をこなした富永らく、らがいる。女性による結社の発足も相次いだ。
高知市立第四小学校の正門わきにある「婦人参政権誕祥之地」の碑
 しかし、明治憲法の発布(89年)前から女性は法的に無能力者とされ、投票はもちろん、演説会や国会の傍聴さえ禁止された。豊子は「われら二千万の女子は皆ことごとく廃人となれり」と憤激した。
以来、女性の権利は冬の時代に入る。平塚らいてうらが女性解放を訴え「新婦人協会」を結成して政治集会への参加権を回復したこと、日本基督教婦人矯風会などが参政権獲得を掲げて奮闘したことなどは評価されるものの、男性と同じ権利が認められるには、1945(昭和20)年の敗戦を待たねばならなかった。46年4月の総選挙で初めて女性代議士(39人)が誕生した。同年11月に日本国憲法が公布され、47年4月の統一地方選では女性の町村長5人、都道府県議23人、市区町村議7711人が生まれた。

 展示はここで終わっている。今を考えるには、世界経済フォーラム(WEF)が昨年12月に発表した各国の「ジェンダー・ギャップ指数」(男女の格差を経済、政治、教育、健康の4分野で示したもの)がわかりやすい。
日本の総合スコアは153か国中、121位(前年は110位)。とくに政治は、女性の国会議員や閣僚が極めて少ないことから、144位(前年125位)と最下位レベルだ。
 46年総選挙で8・4%だった女性代議士の割合は、翌年から1993年まで3%未満を低迷した。その後上向いたものの、2009年の11・3%をピークに10%前後が続く。列国議会同盟による国際比較(昨年3月)では、10・2%(衆院)で193か国中165位。英仏独の30%台はおろか、世界平均の24・3%にも離され、25年前のそれ(11・3%)にも及ばない。

 国会議員の大半が男性、しかも多くが世襲で、彼らの中から首相や閣僚の大半が選ばれる現状が、日本の政治をゆがめている。主に財界や特権層の意向で税金が使われ、利権から遠い教育や福祉は後回しにされてきた。
女性議員を増やすには、出産や子育てをしながら活動できる制度が必要だ。3年前、乳児の長男を抱いて議場入りした熊本市の女性市議(当時42)が退席を命じられた。彼女は翌年も、風邪でのど飴を口に入れて質問したことが問題視され、審議が空転した。欧米のメディアはあきれ顔で論評した。
 同じ頃、ニュージーランドの女性首相(同40)が国連総会に生後3か月の長女と出席し、パートナーの男性がおむつを替えている部屋に入ってきたのが日本の代表団。男性は「彼らのびっくりした顔を写真に撮ればよかった」と皮肉たっぷりに話した。
 全国各地で、女性の地位向上に取り組んできた団体の奮起もカギを握る。高知では1999年に開館した「こうち男女共同参画センター・ソーレ」の設立に動いた女性たちが2006年、男性を含めた「こうち男女共同参画ポレール」を設立した。
 以来、県などと連携しながら学習・啓発活動を進め、最近は「女性議員の拡大」に絞って各党の取り組みの調査や現職議員らによるシンポジウムを手がけた。シンポでは候補者の一定数を女性とするクオータ制の導入、当選させたい人の子育てや介護を支援する態勢づくりなど、熱のこもった議論が繰り広げられた。
(続く)
2020/11/05
自由は土佐の山間より(下)     ―高知から(3)―
石塚直人(元読売新聞記者)

 10月10日に講演した新井さんは、民権期に作られた100余の私擬憲法草案中、枝盛の「日本国々憲案」と並んで双璧とされる「五日市憲法」を発見した。まだ22歳、東京経済大学で著名な近代史家・色川大吉教授のゼミ4年生だった。
 五日市憲法は204条あり、詳細な国民の権利規定、行政府に対する立法府の優位、国民の権利を保護するための司法権の配慮(国事犯への死刑禁止など)が際立っている。
原本は、東京都西部の五日市町(現あきる野市)にある旧家・深沢家の土蔵で見つかった。画期的な発見とはすぐわかったものの、起草者らしい「千葉卓三郎」の名は誰も知らなかった。同じ土蔵にあった紙切れを手がかりに、宮城県から神戸市へと消息を探し求め、人物像を明らかにしていく様子は、著書「五日市憲法」(岩波新書)のハイライトだ。
 卓三郎(1852~83)は戊辰戦争に従軍して敗れ、医学や皇学を学んで上京。ギリシャ正教会の伝道者など遍歴を重ねた後、80年に五日市で教職を得た。ここは自由民権運動が盛んで、何キロもの山道を越えて百人以上が講師の話を聞く「学芸講談会」、部外者の傍聴なしに会員が難しいテーマに挑む「学術討論会」などの民権結社があった。
運動のリーダー深沢権八は、豪農としての財力を新刊本の購入につぎ込み、書庫を住民に開放。卓三郎の転入後は、父・名生とともにその憲法研究を物心両面で支えた。自筆の草案がここで見つかったのもうなずける。

 新井さんは講演で「五日市憲法」と両結社について詳しく説明した。両結社の会合は月3回。学芸講談会は弾圧を避けて会則に「政事法律を論議せず」と書き、組織拡大のため遊説委員を各地に派遣した。権八のメモに残る学術討論会の討論テーマ63項目には、目を見晴らされた。
 「女戸主の政権(選挙権)」は、楠瀬喜多を連想させる。さらに「外国人を裁判官にしていいか」「財産により兵役を免れることの利害」「兄の死去後、弟が兄嫁を娶ることは法的に許されるか」。「不治の患者が苦痛から死を望む時、医師立ち会いの下で薬殺を認めるか」は、今も続く難問と言えよう。
 討論は、発議者が自説を述べた後、賛否の計3人がコメント。続いて発議者が答弁し、議長が議論をまとめて「起立多数」で決着した。会議録は未確認ながら、書記2人の選任も定められており、議論が草案の下敷きになったとみられる。
 講演では「卓三郎が81年夏に高知に赴いた」との説も紹介された。深沢父子宛ての手紙にそれらしい記述があり、憲法草案に没頭していた時期の枝盛との対面シーンを考えると心が躍る。ただ、立志社の記録や地元新聞にも卓三郎の手紙類にも、今のところ高知での活動を裏付けるものはないという。

 「五日市憲法」は、色川教授が提案して名付けた。原文の「日本帝国憲法」では明治憲法と間違われやすく、地域ぐるみの所産との意味も込めた。しかし、この名が広まると、地元から疑問や反論が相次いだという。「草案は千葉が個人で作った」「もし広範な大衆が参加したのなら、今その痕跡がみられないのはなぜか」。
 新井さんは、この声をバネに五日市の近現代史を調べ直した。そして大正期に労働団体「友愛会」の分会、敗戦後には権八の孫を会長とする「五日市新政会」などが結成され、高く評価されていたことを再発見した。質疑でも「自由民権運動が地下水となり、その後も五日市を支えた」と述べ、各地に残る地下水を掘り起こすよう呼びかけた。

 全国で「自由民権百年」が祝われた1981年、私は高知支局で3年目の駆け出しだった。5月に組合の定期大会があり、岩波新書で出たばかりの色川「自由民権」を大阪行き夜行フェリーの中で読んだ。
 重罪人として北海道の原野に送り込まれ、拷問や難工事で命を落とした活動家群像を描いた序章「北の曠野から」に圧倒された。翌日の大会で閉会直前に発言を求め、ほとんど休みが取れない地方支局の窮状を縷々訴えたのは、その余韻としか思えない。支局には本社からすぐ電話が来たらしく、後で先輩にこっぴどく叱られた。

 色川「自由民権」は、立志社や枝盛を高く評価した上で、「立志社から愛国社に至る潮流は民権運動の主流ではない」と断じている。これが当時の学界の大勢だった。土佐派の運動を「士族民権」と見なし、東日本を中心とする農民、商工業者、知識人らの運動に注目した。全国各地で民衆史の掘り起こしが進んでいた。
 枝盛の「日本国々憲案」は、人民が暴虐な政府に対し「兵器を以て抗する」抵抗権・革命権を認めている。深刻な不況下で政府批判が厳しく弾圧された1883~4年、地方の自由党員や農民による激化事件(武力蜂起)が相次いだ。しかし自由党本部は、トップの板垣退助らが欧米視察に出、穏健民権派の改進党を攻撃して運動を分裂させ、あげくに解党した。
 理想社会を求めて蜂起した人たちに民権運動の精髄を見る色川教授らにとって、彼らを「軽挙妄動」と切り捨てた土佐派の評価が辛いのは当たり前。私もそれに影響され、地元の運動をきちんと学ぶ気にはなれなかった。記念館建設絡みの記事はいくつも書いたものの、開館時には転勤していた。

 退職後の今夏以来「友の会」にかかわり、10月は「五日市憲法」ほか民権関係の本を読みあさった。「自由民権」にも久しぶりに目を通し、昔を知る関係者から話を聞いた。
60年代から高知の民権研究を引っ張った外崎光広(故人、元県立高知短大教授)は、青森出身で家族法が専門だったが、高知に着任して枝盛の女性解放論、そして土佐自由民権運動全体にテーマを広げた。
 ただ、当時は退助や枝盛らが「郷土の偉人」としてたたえられる一方、運動を底辺で支えた人たちや社会経済構造の研究は乏しく、学界での評価も低かった。外崎はそうした現状を批判し、科学としての民権研究に力を注いだ。高知の運動を軽視する中央の研究者には、新たな知見を武器に反論した。
 82年1月に彼を会長とする「土佐自由民権研究会」が9人で発足したのは、前年に横浜市で開かれた自由民権百年・第1回全国集会に参加したメンバーが「土佐派への低評価」にがく然としたからという。集会の実行委は、秩父事件や自由党解党などから百年に当たる84年の第2回全国集会で終わりと考えていた。研究会は「高知ではその後も広範な闘いが続き、三大事件建白運動に結びついた」との手紙を実行委に送り、外崎が第2回集会で「次は高知で」とアピール、87年の第3回集会が実現した。
 この集会で基調講演した外崎は、中公新書「自由民権」にある多くの事実誤認を指摘する一方、民権派の実業家が三菱会社に対抗して高知―神戸間の船賃を引き下げた「大分丸事件」などの新事実を紹介した。建白運動に参加した民権家・織田信福と妻竹(山崎竹)の孫の夫人も登壇、2人について語った。
 研究会は集会の報告集を出したほか、10年がかりで民権期の新聞や刊行物を調べ、94年「土佐自由民権運動日録」にまとめて活動を終えた。メンバーには記念館建設期成会の幹部や高知市職員もおり、議論は記念館の構想にも生かされた。記念館友の会の岡林登志郎会長(72)は「展示に板垣退助らの顕彰が乏しいとの声もあるが、運動を担った無数の人たちこそが大切ということです」と話す。

 計3回の全国集会の報告集(三省堂)を読むと、多くの研究者、市民が参加した討論の熱気は凄まじい。それから30年以上が過ぎた今、運動への関心は明らかに薄れた。メディアに取り上げられることも少ない。
 それでも一昨年12月、新井さんら研究者有志が「全国自由民権研究顕彰連絡協議会」(全国みんけん連)を結成、昨年秋に立正大学で第1回大会を開いた。自由民権記念館や友の会も連携し、記念館は今秋「板垣退助伝記資料集」(6巻セット、1万8000円)の刊行を始めた。高知短大で外崎教授に学び、長く民権研究に打ち込んできた公文豪さん(72)(元県議)が編集。3年間で計18巻を見込んでいる。
公文さんによると、退助の人気は戦後に急落、坂本龍馬と逆転した。彼が自分に関する資料の多くを焼き捨てたため、全貌を知るには誰かの日記の断片をつなぐしかなく、不明な点が多いせいだという。ただ、徴兵令に強く反対したこと、3度も爵位の返上を試みたことなどからは、極めて高潔な人格と識見の持ち主だったことがうかがえる。

無名の民権家の闘いを重視した展示物(高知市立自由民権記念館提供)
 自由民権運動の歴史は、権利に目覚め立ち上がった無数の先人たちの苦闘を浮かび上がらせる。権力にすり寄りその一部となった元闘士も多かったとはいえ、国家によって息の根を止められた後も地下水となって湧き出し、子孫を勇気づけてきた。国の無法な暴力への抵抗という面で沖縄の粘り強い反基地運動などはその典型だろう。高知関係者では、大逆事件の幸徳秋水や反戦詩人・槇村浩らが後継者と見なされている。
 戦前に枝盛のそれを深く研究した鈴木安蔵の憲法草案は、日本側の案の中で唯一GHQに採用され、現憲法に色濃く反映した。押し付けられた憲法だから、などと安易に自民党改憲案に乗せられては、国民の権利は明治時代に逆戻りしかねない。
 長く続いた安倍政権下で立憲主義が蹂躙され、10月には後継の菅首相が独断で学術会議会員の任命を拒否した。専守防衛を逸脱した「敵基地攻撃論」が公然と語られ、来年早々の発効が決まった核兵器禁止条約は無視したまま。日本の政治はまさに「戦前」だ。
 にもかかわらず、私たちの大半は黙ってそれに従っている。高度資本主義社会で孤立しがちなことが主因とはいえ、私の元職場を含むかなりの大手メディアがまともな政権批判をしなくなった責任も大きい。

 枝盛は1877年、「世に良政府なる者なきの説」を記した。よい政府などはない、人民がそうできるだけだ。政府に盲従して監視を怠れば、政府はそれにつけこんで悪いことをする。仮に自分は抵抗できないにせよ、政府を信じてはならない、と。
 外国語が全く読めず、翻訳書だけで近代民主主義を身につけた天才は、34歳で亡くなった。もし今生きていたら、どんな言葉を残しただろうか。

 自由民権運動の概説書は難解になりがちで、素人には敷居が高い。私が最も心を動かされたのは、自由民権百年の第1回全国集会報告集(82年)中、最晩年の鈴木も出席した第1分科会の議論(大きな図書館にはある?)。高知のそれでは、公文さんの「土佐の自由民権運動入門」(07年・高知新聞ブックレット、税込み700円)が読みやすい。

(文中の明治期文献からの引用は、適宜現代文に直している)

2020/10/18
〝日本学術会議への人事介入は「レッドパージ」の再来〟
〝日本学術会議への人事介入は「レッドパージ」の再来〟
       ―ファシズムの視点から衝く保阪正康さんの指摘を考える
            
                                福島 清
                  (「北大生・宮澤弘幸『スパイ冤罪事件』の真相を広める会」事務局)

1、保阪正康さんの問題提起

 「サンデー毎日」10月25日号は、「異端狩りを始めた菅政権 日本学術会議への人事介入は『レッドパージ』の再来である」と題した保阪正康さんの特別寄稿を掲載している。菅首相が就任初仕事とばかりに行ったこの事件について、憲法23条が保障する「学問の自由」侵害、日本学術会議に関する過去の国会答弁と矛盾する等々の厳しい批判が高まっている。しかし保阪さんが「レッド・パージの再来」という視点から、ファシズムの危険性に警鐘を鳴らしていることに注目したい。
 保阪さん特別寄稿について、私が注目したポイントは以下の個所である。

 今回の6人は思想がどうこうといった問題ではなく、「反政府的言動」を共産党と見立ててのレッドパージと考えると、まさに「アカデミック・パージ」の第1波ということになるであろう。
 このように政府の気にいらない人物を追放する時には必ず一定の法則がある、どういう法則か。
 <まず必ずターゲットを決めて、その人物を追放するように扇動する学者、研究者がいる。彼らは悪口雑言を浴びせるのが役目だ。やがて呼応する右翼勢力がそれに加わる。そして議会の国家主義的議員がそれを口汚く罵り出す。かつての時代はこれに軍部が支援の姿勢を露わにして、暴力的な威圧をかける。その揚げ句に行政がその人物を教壇から、あるいは学校や研究機関から追い出す具体的処分を行う>
 この法則を簡単にいえば、「扇動者―攻撃者―威圧者―権力者」という流れで見ることができる。
 確かに権力者は見えてきた。しかし「扇動者」「攻撃者」「威圧者」はまだ見えてこない。これまでの順序とは異なるのかもしれない。あるいは逆に、権力者から扇動者に向けて流れがつくられつつあるのかも知れない。
 日本学術会議が問題を抱えているなら、それはそれとして論じるべきだが、一見もっともらしい論が、「アカデミック・パージ」の実態を覆い隠すとすれば、どのような形でも「権力者」の強圧的な態度が常に肯定されることになり、ファシズムが日常化してしまう。そして、政治は国民の信頼をすべて裏切るものになるであろう。今、この国の政治状況はそういう段階だとの自覚が必要なのである。

2、  レッド・パージを問い直す

 今、「北大生・宮澤弘幸『スパイ冤罪事件』の真相を広める会(真相を広める会)・事務局」の一員として、「レッド・パージ70年―検証・新聞の罪と居直り―毎日新聞を中心として」(仮題)の編集・制作に携わっている。2013年に結成した「真相を広める会」は、「宮澤・レーン・スパイ冤罪事件」について、北海道大学の責任を糺すとともに、その前年に発足した第二次安倍政権が策動していた「秘密保全法」(当時の呼称)制定を阻止することを目的に掲げた。
 以来今日まで、その活動を継続しているが、この運動を通じて痛感させられたのは、国家権力犯罪の残酷さである。そこで対象を広げて、他の国家権力犯罪についても調査を始めた。その過程で最初に思いついたのが、戦後最大の人権侵害事件とされている「レッド・パージ」である。新聞OBの一員でもあるので、まずは新聞のレッド・パージを調べてみたところ、驚くべきことに、新聞労連も私も一員であった毎日新聞労組も、パージを容認したうえで「一件落着」としていたのである。
 一方、2002年に結成された「レッド・パージ反対全国連絡センター」は、「レッド・パージ被害者の名誉回復と国家賠償」を求めて活動を継続し、2010年には60周年の集い、2015年には65周年の集いを開催している。その集いをまとめた冊子をいただいたが、そこにも新聞・放送関係のレッド・パージについては何も掲載されていないことが分かった。
 保阪さん提起を受けて、菅首相の日本学術会議新会員6人の「総合的・俯瞰的な活動を確保する観点から」称する任命拒否を考えてみると、レッド・パージ時点で日本政府と新聞経営者たちがとった態度と共通することに気づいた。かつて新聞経営者たちは「マッカーサー元帥の書簡(命令)」を理由とした。菅首相が任命拒否の理由を一切説明せずに言う「総合的・俯瞰的……」を「マッカーサー元帥の書簡」と言い換えてみれば、保阪さんが「レッド・パージの再来」と指摘するのも理解できる。
 当時の新聞経営者たちがレッド・パージ対象者にどのような態度をとったかを示す資料がある。毎日新聞政治部でレッド・パージされた嶌信正さんの証言である。『自処超然』と題した回顧録には、「レッド・パージで毎日を退社」と題した経過と、その後法廷へ提出された陳述書全文が掲載されている。ここでは、前項の経過報告全文を紹介する。
 
3、  嶌信正回顧録

 【レッド・パージで毎日を退社】
 東久邇内閣から吉田茂内閣に代わった時、私は外務省から厚生省へ移り、芦田均厚生大臣との知遇を得、榊原麗一秘書官とは他界するまで深い友情で結ばれた。この榊原氏の長男が、現在の大蔵省金融局長の英資氏である。しかし厚生省が分裂して労働省が発足することになり、今度は労働省を担当することになった。初代労働大臣は米窪満亮氏で、次官は吉武恵市氏。米窪氏は初代の海員組合長であり海のボスだったが、社会党右派なので安心して任命したのだろう。吉武氏は北京で親しくなった新谷要二君の叔父にあたるというので深い関係ができた。
 人の縁とは妙なものである。米窪労相は皇室を尊敬する念に篤く、陛下のカモ猟に招待された時は、貰ってきたカモを肴に我々労働記者を招待してくれたものだ。物のない時代だったので有り難かったが、元来私は酒に弱く、腹一杯呑み食いすると、無性に眠たくなり、後は朝日の後藤君と共同の和田君に頼んで寝てしまった。爾来、何かある度に二人に目配せしてグーグー寝てしまったものである.
 労働省はGHQの指示で新設された省で、労組法や労働基準法の制定で忙しかった。それに労働省の外郭である中労委は、対立した労使が訴えると和解を密議するところでもあり、結構忙しかった。そして仕事の範囲は、次第に労働省や中労委だけでなく社会党や共産党にも及んで行った。
 共産党は当時、徳田球一、野坂参三、伊藤律が勢力を誇っていた頃で、「明日、党が非合法になり徳球らが逮捕される」と噂されると素早く彼らは地下に潜り、かと思うといつの間にか首脳陣は北京に渡っていたものだ。
私はいつの間にか最左派の共産党を担当することになり、担当は左へ左へと押し流されて行った。もちろん私自身の考え方は、共産党とは一線を画していた。進歩的な社会主義を認めてはいたが、むしろ自由主義で民主主義者であったと思っている。社の組合大会などでは田村君と私が政治部から代議員に選ばれて、大いに議論をしたものである。今泉君は支部書記長をやっていたと思う。
 時を経て、そのうちに私は民主党の担当になった。当時、保守は自由党と民主党とに分かれており、後に二つが合併して自由民主党が誕生するのだが、その頃は未だ、民主党は中道政治を謳い、社会党や自由党との間に一線を画していた時代だった。
 それまでは、編集局内で冗談に「嶌はアカだ、共産党だ」などと云われていたが、中道派の民主党を受け持つことになって、今度は「嶌も共産党から中道左派に鞍替えした」と見なされ、徐々に周囲に見方も変わるだろうと思っていた矢先だった。物凄い雨の夜に目黒の八芳園で開かれた民主党役員会の取材をようやく終え、車で帰宅した夜のその翌朝、昭和二十五年七月二十八日、突然、私は社に呼び出された。
 「共産主義者もしくはそれに同調する者として、即刻出ていけ」と、渡瀬亮輔編集主幹(東京)から申し渡されたのである。私は、ただ呆然とするしかなかった。

 【ただ今から社を出て行け】
 昭和二十五年七月二十八日、私は田村五郎君、今泉正浩君らと共に編集局に呼び出され「GHQの命により、君たちを共産主義者並びにその同調者とみなす。即刻社から出て行け」と申し渡された。牧野純夫氏他、総勢二十八名である。当然、我々はそんな不当な申し渡しには承知出来ぬとして、佐伯群治氏、森長英三郎氏ら弁護士を代理人に「地位保全仮処分」を申請すると共に、毎日新聞不正馘首反対同盟を結成し、さらには朝日、読売、共同、NHKその他の被解雇者とも横の連絡組織を作り、言論弾圧反対同盟を結成して闘った。
 我々をクビにした元凶は、民同系に鞍替えした組合幹部とGHQであることがハッキリした。牧野純夫氏を会長とする産別系の全新連を脱退し、会社と一体となる民同系の組合に毎日労組を仕上げた森口忠造・全新聞委員長、磯江仁三郎・毎日労組委員長らが支局長を代議員に押さえ、会社側の山本光春・総務局長と組んで、思うがままに社を動かす反体制派で目の上のコブでもあった産別系の牧野会長や今泉君、そしてこれを支持する田村君や私を「レッドパージ」の名の下にバッサリやったのが実情のようである。
 また、余談だが、この闘争で有楽町でビラ配りをしている時、これまで親しかった友人は皆そっぽを向いて逃げるのではと思っていたのだが、逆に近寄って来て「酷い目に会ったな、元気か」と慰めてくれる友人が多数居てくれた。非常の時にこそ人間、友人というものが良く分かるとつくづく感じた。
            *
 菅首相の「問答無用」の先には、さらなる弾圧が想定される。陰湿かつ巧妙に。すでに、特定秘密保護法、共謀罪法等の弾圧法制が成立している。今回の日本学術会議に対する公然たる弾圧は、何としても阻止しなければならないと考える。
                                   (了)

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