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2023/05/16
日本テレビとNHK ともに開局70年
放送は誰のためのものか・・・
開局当時をふり返ってみるのも一興でしょう
 今年は日本テレビとNHK、共に開局70年です。1952年(昭和27年)7月31日、NHKその他に先駆けて予備免許を手にしたのは日本テレビでした。開局は翌年(1953年)の8月28日です。
 日本にテレビが登場するきっかけはアメリカの上院議員カール・ムントの演説でした。時あたかも朝鮮戦争。ムントは、台頭する共産主義勢力に対抗するため「ラジオのVOA(ボイス・オブ・アメリカ)をテレビ化したビジョン・オブ・アメリカを世界中に設置せよ」と提案したのです。
 この構想は、言ってみればテレビネットワークによって「日本を反共の防波堤」にするというものです。「その最も適切な国はドイツと日本だ」と。

 ここで登場するのが正力松太郎周辺の人物でした。「この時期、ビジョン・オブ・アメリカ構想が持ち込まれたら、国内世論はかえって左傾化する恐れがある」「あなた(ムント)の計画は極めて魅力的だが、これは日本人の手で行われてこそ権威と信頼を勝ちうる。主権回復(講和条約)の前夜に立つ日本で、あなたの計画がそのまま実現されることになれば、せっかくの政治的意図が逆効果になるだろう」と。ムントは「計画を日本人自らやってくれるなら、それが何よりも望ましい」と。やがて正力の公職追放解除、開局に向けて技術も設備もドルも心配してくれることになったのです。日本テレビの正式な社名は日本テレビ放送網株式会社。「網」の字が今も気になっています。言論・報道の自由のネットワーク(網)であってほしい。
 「ジャーナリズムとは権力が報じられたくない事を報じることだ。それ以外のものは広報に過ぎない」といったイギリスのジャーナリスト、ジョージ・オーウェルの言葉を改めて噛み締めています。
(仲)
2023/05/03
「改憲]の課題と岸田首相
――「24年9月」をめぐる攻防・再論
 連休中、岸田首相はアフリカ訪問、帰国するとすぐ韓国訪問だ。いうまでもなく19~21日は「広島サミット」。そのあとはとなると、いつ解散があってもおかしくない。
 3日は憲法記念日だ。各紙の5月の記事ともあわせ、改めて整理する。岸田首相の頭の中は「24年9月の自民総裁任期切れ=総裁選」でどう再選を果たすかがほとんどだろう。
 しかし彼には「もう一つの課題」がある。「総裁任期中に改憲にめどをつける」、いいかえれば「改憲案を国民投票にかける」ことができるかどうかだ。21年総裁選時の「公約」だ。
 首相は聞かれるたびにいう。「総裁任期中の改憲という公約はいささかもかわらない」。3日付「産経」は、4月19日の岸田首相の憲法インタビューが1面トップだ。やはり首相はこの「いささかも…」せりふを繰り返している。

 ただ24年9月までは1年4カ月。政治には行程表と一定のリアリズムが求められる。首相は「1年4カ月で改憲ができるのか」に答えを出す必要がある。
 岸田首相は「再選」と「改憲」の連立方程式を解くことができるのかが突きつけられる。自民党のなかにも「(総裁任期の)1期3年では憲法改正などすべての課題は解決できない」(遠藤利明総務会長、3月,『選択』4月号)という声はある。上記のリアリズムの一形態だろう。

 わが改憲反対運動に目を移そう。自民の改憲への執念に目を凝らしつつ、岸田改憲は「時間足りずに窮地に」とみる論に注目した。「戦争させない・9条壊すな!総がかり行動委員会共同代表」の高田健氏である。『週刊金曜日』3月24日号で言う。氏はまず20年8月、それまで改憲の執念をあらわにしていた当時の安倍首相が病気を理由に突然辞意を表明したことにふれる。

 高田氏はいう。「任期中〈21年9月まで〉の改憲が不可能になって追い詰められたことこそ、安倍辞任の隠された日真の理由なのではないか」。そのうえで今の岸田首相は「当時の安倍元首相がおかれた条件とほとんど変わりがない」と指摘する。
 高田氏によると、改憲国民投票の周知期間は「常識で考えて180日だ。とすれば来年3月末までに衆参両院の本会議で改憲案を発議しなくてはならない」「これを可能と考えるのか」と突きつける。改憲阻止運動における攻勢的リアリズムといえるだろう。

 「毎日」3日付は、「改憲反対47%、賛成35%」」は昨年の「賛成47%、反対37%」を逆転したことを1面見出しにしていた。この1年、むだではなかったかと、いささか励まされる。同日「朝日」は同社調査で、憲法9条を「変える方がよい」37%は「13年以降2番目の高さ」を1面見出しにとった。同紙なりの危機感と受け止めたい。

 興味深い「72%」「70%」という数字があった。共同通信が2000人に調査して5月1日に発表した(「東京」など2日付)。改憲の必要「ある」24%、「どちららかというとある」48%で計72%。
 しかし一方、国民の間で改憲の機運が高まっていると思うかについては「思わない」22%、「どちらかといえば思わない」48%で計70%。72%の「改憲」の思い(かなり漠然としている)を、反対の「機運」が大きく押し戻しているのが「70%」だ。これも「改憲反対運動の持つリアリズム」だろう。

 ただ最後に言わねばならない。安倍的妄信に支えられた改憲勢力の反動的瞬発力を軽視してはならない。

2023/04/27
気になって気になって仕方がない
鎌倉市役所移転問題
突然鎌倉のことで恐縮です。
松尾という市長が、反対の声が大きくなっているにもかかわらず、ひたすら市役所移転にこだわり続けているのです。
この一文は「移転問題を考える集会」に文書発言したものです。

▽ 移転先とされている「深沢」という地区は、鎌倉の端っこ、藤沢に近い、ちょっと雨が降れば水浸しになるところなのです。
 地名には意味があります。「谷」とは低い場所のこと。一つの例が東京の渋谷です。大雨で地下街が大きな被害を受けましたね。
 「沢」とは水辺、低地のこと。地震、水害に弱いほか湿気がたまりやすい場所のことです。2018年7月、西日本を襲った記録的な豪雨を記憶されている人もいるでしょう。死者200人を超えました。広島県では降り続いた大雨による土砂崩れや土石流が住宅部に流れ込み、被害が拡大しました。
 とりわけ被害が大きかったのは安佐南区八木地区でした。この地は「蛇落地悪谷(あしや)」という地名で住民から怖れられていたところです。蛇が降りるように水害がおきる悪い谷といわれていたところです。それが地名変更で安佐南区八木地区になりました蛇落地悪谷が住宅地になったのです。

▽ わたしの今日の本題は、鎌倉市役所は「現在地にあるべき」論です。
 年金者組合の公平さんという方が寄せてくださったコメントを紹介しましょう。
  「鎌倉という都市の財産は“歴史の重み”。これだけは他市が真似できません。平安時代には鎌倉郡衙があり、頼朝が幕府を置き、近代では鎌倉駅開設。
 鎌倉市役所はこの地にあってこそ名乗れるのです。歴史の重み無視した市庁舎移転は第二の鎌倉幕府滅亡です。松尾市長は未来の市民から“第二の北条高時(最後の執権といわれている)と言われるでしょう。防災を言うのなら、現在地に腰を据えてこそ、深沢や大船、腰越をも含めたすべての市民の安全を図るべきです」

▽「古都鎌倉」の政治の中心は 若宮側と市役所側
 鎌倉幕府の最初は頼朝の屋敷内に置かれた大倉(蔵)幕府でしたが、「頼朝の妻・政子が亡くなるとともに、北条泰時は将軍の御所(幕府)を宇津宮辻子(雪の下教会横の小道を入ったところにある宇都宮稲荷の周辺)に移し,約10年間政治が行われましたが、若宮大路側に再び御所を新造し、若宮幕府へ移りました。以後、幕府滅亡まで若宮幕府は続きました。

▽ 問注所
 御成小学校前に建っている「問注所旧蹟碑」をご存知でしょう。「問注」とは訴訟等の当事者双方から審問対決させること、あるいはその内容を文書記録することを意味します。
 ちなみに、由比ガ浜から問注所旧蹟碑へ向かう道筋に「裁許橋」があり、さらに、訴訟の結果 由比ガ浜で処刑された者の供養のための六地蔵などがあります。鎌倉の歴史は、少し調べただけでも興味深いではありませんか。
 御成町という地名は、かつて鎌倉御用邸があり、皇族がお成り(滞在)になったことからつけられたのですね。
 鎌倉市の前身。鎌倉町の町役場があったところは、若宮大路沿いの通称「おんめさま」と呼ばれる大巧寺右側にありました。
町から市になったのは1939年。この地を選んだのは、それなりの理由があったのではないでしょうか。
 鎌倉市役所とその周辺は、まさしく、若宮大路を中心とした行政の地とともに、歴史的な地であることがわかります。その視点で見れば見るほど、鎌倉市役所は「古都鎌倉」「鎌倉らしさ」の中心にあり続けるべきだ と思いますが どうでしょうか。
(仲)
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