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2022/06/20
世論と世の中の空気をただしたい
 加藤陽子教授の「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」に、1931年(昭和6年)の満州事変(柳条湖事件)の2カ月前の7月に行われた東大(東京帝大)の学生の意識調査の結果が紹介されている。竹内洋著「丸山真男の時代」(中公新書)からの引用というが、「満蒙に武力行使は正当なりや」との問いに、「然り」(はい)が88%だったという。

 内訳では「直ちに武力行使すべき」が52%、「外交手段を尽くした後に武力行使をすべき」が36%だったという。武力行使をしてはダメだ、と答えた学生は12%で、加藤教授は「いろいろな知識を持っていたと思われる東大生の88%が武力行使を『是』としていたということに、私は驚きました」と書いている。

▼作られていた戦争のムード

 日本の中国侵略は、満州事変から始まったとされ、当時の新聞が軍部批判から一転、「戦争協力」に「転向」したことが指摘されている。しかし、ここに紹介された東大生の意識は、実はそれまでの間に、世論、つまり世の中のムードは、戦争に傾き、息を潜めて情勢を見るという感じになっていたことを示しているのではないか、と思った。

 この時代の空気…。それは、柳条湖事件が起きたときの現地の新聞の反応に見ることができる。当日、事件勃発の瞬間、朝日の武内文彬・奉天支局長は入浴中だったが、ガラス戸が破れ家を揺るがす大音響と大砲の爆音や機関銃の銃声に事態を知り本社に打電した。駆けつけてきた支局員のK記者に「『いよいよやりよったネ』と話しかけると、『とうとうやりましたネ』とK君も顔を真っ赤にして興奮していた」という。(前坂俊之「太平洋戦争と新聞」講談社学術文庫)

 つまり、近現代の戦争は、様々な手立てで、戦争勃発の「空気」を作り出し、そこに、何か全く違う火ダネを放り込んで発火させるのだ。いま、そこに乗ってはならない。

▼譲った一歩は大きな一歩と

 ウクライナ戦争で自民党は、アベノミクスと新自由主義による物価高や生活困窮を覆い隠し、「9条では国を守れない」「同盟強化と防衛費増額を」とキャンペーンし、防衛費倍増などを進めている。これに乗せられ、世論も防衛費増に傾き、「大幅に」26%、「ある程度は」50%の増額を認める意見が計76%に達し、「増やす必要はない」17%、「減らすべきだ」6%の計24%を大幅に上回っている(毎日新聞5月24日)。

 また、読売と日本テレビの10代、20代以上の調査によると、「防衛費の増額」の答えは77%が賛成、反対は19%で、賛成の内訳は「GDP2%以上の増額」11%、「1~2%の範囲で」42%ということだった。

 満州事変前の東大生の意識と、いまの世論を同じに論じるつもりはない。ただ考えてみたいのは、「場合によっては…」の前提を付けながら「武力による解決もあり得る」と考える心証はいまも昔も変わっていない、のではないか、ということだ。

 しかし、原爆のむごたらしさ、ただ命を失うだけではない地球の危機、脳細胞を狂わせるようなサイバー攻撃の「発展」…。そんな中で人類は、「この時代、もう戦争は問題解決になり得ない」と悟ったのではなかったのか。私たちは、日本国憲法の決意を国民の「覚悟」にしていかなければならないのではないか。

 「非武装では不安だから、警察予備隊。警察力だけでは難しいから、専守防衛。何かあったら自衛のために戦うのは当たり前。世界情勢から言えば核戦力。1%枠などと言うのは古い、世の中は2%、それで3大強国に入る。ややこしいから、9条などやめてしまえ…!」。
 「防衛費倍増も仕方がない、景気が悪いんだから武器輸出も、ウクライナならいいだろう」。…一歩ずつ譲ってきた結果が、いま、ここまできたのではないか。

 いましなくてはいけないことは、防衛力を強化しなくてもいいようにするために、なにをするか、である。

 今週、核禁条約の第1回締約国会議が行われ、参院選が公示される。
 軍拡反対、防衛費倍増は民生に回せ、軍備のない世界こそ、戦争がない世界。核禁条約はその第一歩!! 簡単な論理が庶民の主張になるよう、世論の「間違い」、世の中の「空気」を正したい。
2022/06/11
日本は降伏すべきではなかったのか
―篠田英朗教授に問う

  日本は降伏すべきではなかったのか  ―篠田英朗教授に問う

 ★篠田英朗氏という東京外大教授がいる。国際政治学が専門とのこと。朝日4月15日付の「オピニオン」欄「戦うべきか、否か」に登場。ウクライナに「降伏」「妥協」を求める議論に対してこう述べた。「ウクライナでは大統領の方針を9割の国民が支持しています」「当事者が苦悩の末にそういう選択をした以上、それに対して敬意を払うべきでしょう」。妥当な意見だと思った。その後も氏はこの観点から橋下徹弁護士の「妥協・降伏」論に反論している。

 ★この篠田氏の名を今度は6月3日の産経「オピニオン」の「正論」欄で見た。冒頭、「ロシア・ウクライナ戦争」で「印象深いのは、左派系の方々の『絶対平和主義』の劣化である」とある。ん? 何を言ってるのかな。氏によると「絶対平和主義者」は「ウクライナにも非がある」として「『どっちもどっち』論」になっている、これはダメだという。だれのことをなんだろう。
 氏のいう「絶対平和主義者」とは、たとえば上記の朝日オピニオン欄で「非暴力抵抗こそ民を守る」と主張した映画監督の想田和弘氏あたりか。想田氏は「国の指導者が一切交戦しないことを決断」して「徹底的な非暴力・不服従の抵抗」を言ってるのであって、そもそも「どっちもどっち」論とは無縁だ。

 では「どっちもどっち」論の一典型といわれる、やはり映画監督の河瀨直美氏はどうか。彼女は東大入学式の祝辞で「「ロシア」という国を悪者にすることは簡単である」「『悪』を存在させることで、私は安心していないだろうか」と問いかけた。一種の観念論・不可知論だが、「絶対的平和論」ではない。篠田氏はいったい誰を批判しようとしているのか。

 ★産経文を追うと、篠田氏は「1945年の日本も早く降伏するべきだった」と主張する人々が気に入らない。つまり氏は「ウクライナは降伏を」論も「かつての日本も早く降伏すべきだった」論も批判する。後者は論証抜きで「イデオロギー的な歴史観」だという。要するに第二次世界大戦と、今回のロシアのウクライナ侵略の「正邪」が見えていないのだ。

 侵略国日本がもっと早くポツダム宣言を受諾していれば、何十万の日本人の命が失われずにすんだかは、歴史の真実だろう。まさか氏は「降伏反対」をキーワードに今回のウクライナの事態と第二次大戦の日本を見ているわけではないでしょうね。

 氏は最後に、日本の絶対的平和主義者は「ウクライナと改憲を結びつけるな」と言っていると論難する。「ロシアのウクライナ侵略に乗じて憲法9条をなくせというのは筋違いだ」という声は「絶対的平和主義者」を含む少なくない国民の声だ。

 氏が4月の朝日で「『法の支配』によって国際社会の秩序を維持することは、二度の世界大戦の教訓を踏まえて、人類が取り組んでいる壮大な実験です」と言ったのはいったい何だったのか。「二度の世界大戦の教訓」は国連憲章と日本国憲法に結実したのではなかったか。

 氏にとっての教訓は「9条の否定」なのか、改めて氏に問いたい。
2022/06/03
長崎市幹部による性暴力事件
原告の女性記者が勝訴
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<判決後に開かれた記者会見の様子=NHKのニュースより>
 報道機関に勤める女性記者が、長崎市の幹部(当時)に性暴力を受け、市に損害賠償を求めた、長崎市性暴力訴訟で、長崎地裁は5月30日、約1975万円を支払う判決を言い渡し、原告の女性記者が勝訴した。この訴訟では、市幹部が自死し、管理者である市の責任を認められるか否かが注目された。判決は、市幹部による性暴力は、職権を乱用したもので、記者は業務(取材活動)中だったことを認めるなど、画期的な内容となった。
 事件は2007年に起きた。この幹部は、国際的に注目される原爆行政をつかさどる立場(原爆被爆対策部長)にあった。女性記者は、8月9日の平和祈念式典に関連することを確認するよう指示を受け、この幹部に連絡を取ったところ、「いまから会おう」と言われ、被害に遭った。
 事件後、女性記者は体調を崩し、PTSD(心的外傷後ストレス障害)の診断を受けた。性暴力の被害者が「拒否すれば防ぐことができた」などと非難される二次被害(二次加害という人もいる)は後を絶たない。この女性記者も例外ではなかった。幹部の同僚らが虚偽の内容を流布し、インターネット上でも中傷を受けた。
 事件から約3カ月後に幹部が自死し、「事実関係を明らかにできない」と市はあいまいな態度を取り続けた。女性記者は09年、日弁連に人権救済の申し立てをした。日弁連は14年、女性記者に非があるかのような事実に反する風説が流布されることで、さらなる「精神的苦痛を強いられる二次被害」があったなどと指摘した。市に謝罪と再発防止策を求める勧告を行ったが、市は受け入れを拒否。女性記者は、事件から12年を経た19年、提訴に踏み切った。「必要な情報を得て市民に伝える。その職務を果たすために私たちは働いていることを、裁判を通して世の中に知らせたかった」。提訴後に語った言葉だ。記者やジャーナリストへの暴力は、報道の自由の侵害と密接に関わる。
 加害者の処罰について日本は、性犯罪の立証責任を被害者側が負わなければいけないという問題がある。この女性記者は、弁護士や支援者らに支えられて、この壁を打ち破った。けれども、本来、こうした立証責任は、加害側が追うべきものだ。
 控訴期間は2週間。市が控訴した場合、裁判は福岡高裁に持ち込まれる。裁判が長引けば、被害者の苦しみはさらに続く。
 平和とは単に戦争のない状態ではない。人々の自由や尊厳が守られ、性暴力のない社会をつくることは、「平和都市」をかかげる長崎市の大事な任務だ。
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